百年の杜の酒肴をご自宅で!!

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地物や国産食材にこだわり、無化調、砂糖不使用の安心・安全な百年の杜の酒肴をご自宅で!

その日の店主おすすめの酒肴を数種類ご堪能できます。苦手なもの等ございましたら、お申し付け下さい。

ちょっとした酒肴500円(税別)から、700円(税別)、1,000円(税別)、1,500 円(税別)と量や内容に応じて、調整出来ます(ご飯付きのお弁当でも!)。

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定番メニューと本日のオススメからご提供出来るメニューもあります。

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貸出容器の松花堂弁当1,500円(税別)〜はイチオシです!数量が多い場合は、要予約ですが、小さな店舗ですので、提供に限りがあります。いずれにしても、あらかじめ電話でご予約を頂けると助かります(046-834-7372)。

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定食もあります!
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『福島で酒を造りたい「磐城壽」復活の軌跡』

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『闘う純米酒』の著者として知られる上野敏彦さんが、新刊『福島で酒を造りたい「磐城壽」復活の軌跡』(平凡社)を出版された。
福島県浪江町で銘酒「磐城壽」を醸していた鈴木酒造店。海に最も近い蔵として地酒ファンに知られていたが、3.11で津波に蔵は飲み込まれ、福島第一原発の事故が重なり、立ち入りも出来ない状態となった。
そのわずか8ヶ月後の2011年11月に、山形県長井市で酒造りを再開する。
市内にあった東洋酒造は後継者不足、経営も困難な状況にあり、そこが鈴木酒造店の移転先となった。
それから9年の月日が流れ、2020年7月に浪江町で「道の駅なみえ」がオープンし、その一角に日本酒の醸造所施設が設けられ、少量ではあるが鈴木酒造店が故郷での酒造りを再会するという。
そこに至るまでの軌跡が、浪江町や長井市の文化的背景、鈴木酒造店の生い立ちと共に、細密に描かれている。
お上の技術によって粉々にされた地域の民の技による怒りの再起の物語は、まだまだ序章に過ぎないのだろう。
最終章にあたる第5章で、拙著『居酒屋おやじがタイで平和を考える』(コモンズ )を引用、僕自身のことも綴ってくれた。
僕がタイとの交流を通じてお世話になっている山形県長井市。居酒屋を営むことによって出会った横須賀市追浜の掛田商店や一滴の会。その出会いを名著の一部に組み込んでくれた。
明日、鈴木酒造店が醸した今期の『甦る』がお店に届く。
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13年ぶりの九州へ

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父親の故郷は長崎。タイとの国際交流の仕事でも毎年のように訪れていた九州。店を営業してからはすっかり遠のき、2月9日〜11日にかけ、13年ぶりにその地を訪ねた。
初日は佐賀県唐津市へ。農民作家であり、僕が事務局を務めるアジア農民交流センター(AFEC)の共同代表の山下惣一さんに会った。懐かしい風景と思い出と共に昼から酔う。夜は久留米市内にて、久留米地球市民ボランティアの会(KOVC)の仲間たちと再会。
今回は、タイとの国際交流の関係で親しくさせて頂いている内藤信哉さんが3日間、車を出してくれて、宿泊も2泊とも内藤宅。
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2日目の午前中は内藤さんの車で、高良山や朝倉市の山田堰を案内してもらった。
そして午後。今回の旅は、日本酒の勉強会 一滴の会(ひとしずくのかい)と久留米の酒蔵 「杜の蔵」を訪問することになり、実現した。杜の蔵の森永さんとは、毎年のように会っているが、蔵訪問は13年ぶり。
‪13人のメンバーと蔵見学に試飲と充実したひとときを過ごし、懇親会は‬久留米市内の『鳥喜』にて有明海の珍味をアテに酔いしれる。その後も2軒、3軒と行き、内藤宅での晩餐まで楽しんだ。

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3日目の最終日は、これまたAFECの活動でお世話になっている中村修さんの案内で、三瀦郡大木町『おおき循環センターくるるん』
http://kururun.jp/
を視察。
タイとの国際交流でお世話になっている山形県長井市のレインボープラン
https://www.city.nagai.yamagata.jp/administration_information/machi/rainbow_plan/6311.html
同様に、環境の為だけでなく、その地域の人々にとって有益な空間を創り出し、大木町のシンボルにもなっている。
説得力のある数字、データの収集力を持つ中村さんに改めて感服。僕にもそれが出来たなら、もう少しお店は儲かるのに(^^;;
まあとにかく、感無量の3日間。
お世話になった皆様に感謝申し上げます!

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第8章「越境」を振り返る

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「生きるための歌」(プレーン・プア・チィーウィット)。1973年、タイで学生運動が盛んな時代に生まれた歌のジャンルだ。大規模開発、近代化の陰で起こる環境破壊や社会の歪を歌で訴えている。
今回の旅の最後に訪ねた「スースーバンド」もその代表的なグループで、アコースティックやエレキギターに東北タイやアフリカの伝統楽器等を交え、独自の生きるための歌を確立している。
この最終章では、彼らの歌の歌詞を交えながら、旅を振り返った。そして、僕がこの本で一番言いたかった「自分自身が安心できる食べ物やお酒を選ぶという、ある意味で自分本位な行為が、究極の国際協力であり、平和構築ではないのか。平和を願う気持ちがあるのなら、そこから第一歩を踏み出していこう」という言葉をここに収めた。
そして「越境」。
それは、こんな日本にいてもつまらないから、と逃げるための越境ではなく、おこがましく海外に援助をするための越境でもなく、いまあるいびつな境を越えて、僕たちのこの世の中をより良くしていくための越境だ。
破壊を伴うグローバリゼーションはもう懲り懲りだ。各地域で殊勝に生きる仲間たちと地球規模で連帯しあい、もうひとつのグローバリゼーションを創っていこう。
旅はまだまだ続く。

第7章「食をみつめる」を振り返る

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豊かさとは何かと尋ねられたら、素直に美味しいと思うものを食べることが出来ること、と答える。これ食うな、あれ食うな、そんな堅苦しいことなど言いたくもないし言われたくもない。しかし、いまは意識して食さなければならない時代になっている。残念ながら豊かな社会とは言えない。
別の章の所々でも記してきたが、僕たちの食生活は、地球の隅々の土や空気を汚して成り立っている。そして、現代病と言われているその殆どの原因が食にあり、食のグローバル化が僕たちの身体までも痛みつけている。
この章では、「安くてヘルシーなバナナの裏側」の話やそれに対するオルタナティブな活動、西日本新聞が取り組む「食卓の向こう側」や「快医学」の活動を紹介し、そんな現状の中での希望を綴った。
NPO法人「大地といのちの会」が作成した「大自然の生命力とつながる食生活17項目」を転載させて頂いたが、ぜひ実践してほしい。
この章を読むことで、あらためて食を見つめ直すきっかけになって頂けたら幸いである。



第6章「お酒から考える自由と平和」を振り返る

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これまで長く国際交流の活動に関わって来たけれども、なにせ今は居酒屋の店主。タイのことよりもお酒と食の世界にどっぷりと浸かった日常。この章の“お酒”、次章の“食”にまつわる物語は、いわばこの本の枢要として筆をすすめた。

4章では、既に神亀酒造が醸す「真穂人」の酒米の生産者のことや鈴木酒造店の純米酒「甦る」の物語を綴った。

この章では、寿福酒造場や杜の蔵、竹鶴酒造に登場してもらい、本格焼酎や純米酒の魅力に迫った。

タイと日本のどぶろくの話では、前田俊彦編『ドブロクをつくろう』(農産漁村文化協会)からの文章を引用させて頂き、生産する自由を取り戻すことが平和な社会を構築する、と結んだ。

この章を酒肴に、本格焼酎や純米酒を美味しく飲んで頂ければ幸いである。

第5章「むらとまちを結ぶ市場」を振り返る

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タイ東北部コーンケーン県ポン郡役所内で開催されている「むらとまちを結ぶ市場」。アジア農民交流センター(AFEC)や(特非)日本国際ボランティアセンター(JVC)の仲間たちによるタイと日本の交流がきっかけとなり生まれた。
僕はこのプロジェクト責任者を担ったのだが、この事業を“援助”と思ったことは一度もない。この丸い地球に生きる仲間たちと一緒になって、ちょっと間違った方向に向かっている今の社会を、少しでも良くしていく一役を担うことが出来れば、そんな思いでプロジェクトを進めた。
考案した年から既に20年が経った。
遠方からの見学者は絶えず、同じような市場は「緑の市場」と呼ばれ、他地域にも広がっている。
そこにはお金を介さない“おすそわけ”と、お金を介した“経済”が融合した世界が創られ、いま求められている経済とはこういうものではないか、とグローバル経済の代案を示した。NGOの活動としての成功例とも自負している。
そんな第5章を是非もう一度、ご一読下さい。

第4章「希望を紡ぐ日本の仲間たち」を振り返る

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アジア農民交流センター(AFEC)の共同代表の山下惣一さん(1936年生)と菅野芳秀 さん(1949年生)。2人には共通点がある。山下さんは、少年時代に大学入学資格検定の試験を受けることを父親から反対され、棚田の下の田んぼに突き落とされる。2回の家出を試みるが、逃げても村も家も変わらない。逃げ出すのではなく、そうした現状を変えていがなければならないと強く感じ、その思いを原動力として、地域を軸とした農民作家になる(第2章)。
そして、菅野さんは、大学時代に学生運動に関わり、沖縄まで足を運ぶ。いつでも逃げ出したいような沖縄社会の現実がある中で、「後ろ向きに生きていたら、後に続く子孫も逃げる。希望をもって、逃げ出す必要のない地域をつくる役割が私たちにあるのではないか」とその沖縄の人からの一言に、はっと気づかされたという。山下さんと同様に、逃げ出さなくてもいい地域づくりのため、山形県長井市の故郷に戻り活動する。
世の中の愚行に対して、ただ嘆き、怒るのではなく、それに対する代案、オルタナティブな活動を地域で創る。
第4章では、そんな希望を紡ぐ、心豊かな日本の仲間たちを紹介した。この不安な世情の中で、僕たちはどんな一歩を踏み出したらいいのか、そんな示唆を与えてくれている。

第3章「闘う農民バムルン・カヨター」を振り返る

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僕が『イサーンの百姓たち』(めこん/2004)に続く本を書くことを農業ジャーナリストの大野和興さんに伝えるや否や、「ヨーさんのこともまとめないとな」という返答が帰ってきた。ヨーさんことバムルン・カヨター。東北タイが誇る農民リーダーだ。僕は学生時代に少なからず司馬遼太郎の本に影響されたが、もし司馬遼太郎がヨーさんと出会っていたならば、確実に歴史小説の主人公にするであろう。
そんなタイの歴史に名を残すヨーさんと出会えたのは、僕にとっての大きな財産だ。アジア農民交流センター(AFEC)の菅野芳秀共同代表がフィリピンの国際会議で彼と邂逅したことが縁で、AFECのタイ側世話人として、僕たちの交流の中心人物になっている。
僕がヨーさんのことを初めて知ったのは、1994年にタイに滞在していた時のテレビのニュースだった。国の農政を揺らがすほどの影響力を持ち、闘う農民として彼の名は全国に知れ渡っていた。政府に命を狙われ、防弾チョッキを身に付けてまでも農民運動に生命を捧げていたのだ。
帰国後直ぐに、彼を山形に連れて行く大役を任されるとは思ってもみなかった。
ヨーさんは、多種多用な農作物を育てる複合農業を40年以上続けながら、農民運動を続け、世界規模の農民組織「ビアカンペシーナ」にも深く関わってきた。
相談役を務める組織に貧民連合(サマッチャー・コンチョン)がある。仲間たちは声を揃える。
「貧民、それは、権力に貧しく、機会に貧しく、権利に貧しいこと」
彼らは金銭的に貧しいことを訴えているのではなく、人々が本来あたりまえに持つ主体性を取り戻すために、その当事者の1人として声を上げている。
そんなヨーさんと彼のカリスマ性を必要とさせたタイ農村社会の様子を第3章にまとめた。

第2章「日本の農業が歩んできた道のり」を振り返る

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NGOの活動やタイのことがもっと知りたくなり、1994年、24歳のときに、日本国際ボランティアセンター(JVC)の活動地がある東北タイの農村に、ボランティアとして1年間滞在する機会を得た。JVCの農村にある研修センターに滞在し、農作業や日常の雑務を手伝いながら、多くのことを学んだ。あっと言う間の1年間だった。
そして運が良かった。帰国間際に農業ジャーナリストの大野和興さんが、フィリピン・ネグロス島の地域リーダーを連れて、僕が滞在する活動地に農民交流に来られたのだ。以来、当時大野さんが事務局長を務めていたアジア農民交流センター(AFEC/山下惣一・菅野芳秀 共同代表)の活動に僕も参加することになる。
タイの仲間たちが来日したら、僕も一緒に日本の農村を訪問したり、日本で面白い地域の活動に携わる人たちと一緒にタイの農村を歩いたりと、日本とタイの地域を結ぶ活動に従事した。そのことで、タイの農業だけではなく、日本の農業に関しても多く学ぶことが出来た。
タイで国家レベルの計画経済が始まった同年の1961年、日本では農業基本法が制定された。政府は、アメリカから入って来る農作物の生産を減らす政策をとり、選択的拡大、農作物の大量均一化が進められた。一つの地域で単一の農作物が大量に生産され、大都会へと運ばていった。
国際的な輸出作物は、食料が不足している国ではなく、日本のような高く売れる国に大量に運ばれ、日本の農業もその安い農作物に太刀打ち出来ず衰退した。農作物の輸出側と輸入側の両方の農家がグローバリゼーションの波に翻弄されてしまっていたのだ。
そんな現状を山下さんや大野さんの言葉を借りて第2章にまとめた。

第1章「タイとの出会い」を振り返る

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タイとの出会い、それは日本の食との出会いでもあった。高校、大学とお寿司屋さんでアルバイトばかりをしていたが、一歩、外の世界にも触れたいという思いが生まれ、大学3年生の時にNGOの老舗、日本国際ボランティアセンター(JVC)に足を運んだ。JVCは当時、タイでインドシナ難民の活動に力を入れていたため、タイに滞在経験のあるスタッフが多く、その影響で大学4年のときタイに2週間の一人旅に出かけた。その後、独学でタイ語を学び、タイに関する知識も増やした。とは言っても真面目に勉学を勤しむような毎日を過ごしていたのではなく、相変わらずのアルバイト生活、そして夜は仲間たちと飲み歩いた。でも既に目線が変わっていた。アルバイト先で使うタイ産のエビ、ブラックタイガーはタイから輸入され、居酒屋で食べる焼き鳥の原料も調べてみるとタイ産が多かった。

ブラックタイガーを養殖する漁民、輸出向けの鶏の飼育場や加工場で働く人々の生活向上につながっているかと思いきや、養殖のために、その地域の人々にとって大切な資源であるマングローブが破壊され、その過密の養殖池で育てられたエビは薬漬け。5年も経てばヘドロにまみれたその池は使えなくなり、企業はその生産現場を捨て、他の地域に移行する。大量生産の輸出用鶏肉も大量の予防薬や抗生物質が使用され、加工場の労働者たちも低賃金で働かされていた。

輸出向けのトウモロコシやキャッサバ、サトウキビ等の換金作物栽培は、森林伐採によって成り立ち、その農作物は常に国際価格に左右され、農民たちは換金どころか”換借金”の生活に苦しんでいた。

僕たち日本人が、お金を出して買っている食べ物の陰で、タイや南の国々で環境破壊が急速にすすみ、その地域に住む人たちの豊かさを喪失させている現実を知ったのだ。

『居酒屋おやじがタイで平和を考える』を振り返る

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『居酒屋おやじがタイで平和を考える』(コモンズ)を出版してから、まもなく1年が経つ。自分自身への振り返りと次のステップに向け、この本で読者に伝えたかったことを各章ごとにまとめてみる。
まずは「はじめに」の全文掲載をして、次回の第1章につなぐ!
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はじめに
景気が悪化して影響を受けた業種の代名詞として、しばしばマスコミに取り上げられる居酒屋産業。一般社団法人日本フードサービス協会によると、居酒屋の市場規模はピークだった一九九二年の一兆四六二九億円から減り続け、ここ数年は一兆円程度。
とは言っても飲兵衛が酒をやめたわけではない。激安居酒屋が貢献している。千円で程よく飲める「せんべろ」酒場、酒もつまみも三百円均一の三〇〇円居酒屋に続き、百円居酒屋も現れ、「食べ物込みで三〇〇〇円飲み放題」は、若者の飲み会にとって当たり前になりつつある。そこに外国からの安い輸入食材が一役買っていることは間違いない。
私もそんな食の世界に関わって三〇年、居酒屋を経営して一〇年の月日が経った。でも飲食業一筋ではない。並行して、長くタイを中心とした国際交流の活動にも携わってきた。まったく違った業種と思われるが、共通点がいっぱいある。この本で紹介する東北タイで取り組んだ「地場の市場づくり」も、いま僕が営む居酒屋も、人と人、生産者と消費者を結び、豊かな食を守っていくことをコンセプトにしている。
二〇一七年一一月、アジア農民交流センター(Asian Farmers Exchange Center )のメンバーと一緒に、店を休業して一週間ほどタイに出かけた。タイは、日本の主要食料輸入国の一つだ。いつも店ではつまらない冗談ばかりを言っている僕だが、その道中での出来事や物語に登場する仲間たちの経験を題材にして、ちょっと真面目に平和って何?ということを考えてみた。
この本の第5章にまとめた地場の市場づくりの活動内容や、物語の舞台である東北タイの歴史や文化、人々の暮らし、最終章に登場するスースーバンドや「生きるための歌」などに関しては、二〇〇四年に出版した『イサーンの百姓たち』(めこん)のほうが詳しい。ご興味のある方は、是非そちらを読んでいただきたい。本書に関しては、タイのこと以上に、むしろ日本の農や食、お酒にまつわる出来事、今回の旅を共にした仲間たちが日本の各地域で取り組むユニークな活動の紹介にその比重を置いている。
ただ僕が尊敬し、会うと誰もが魅了されるタイの農民活動家バムルン・カヨターさんのことはどうしてもまとめておきたかったので、第3章に彼の波乱に満ちた人生を綴った。東北タイの片隅に、こんな素敵な人物がいるのだ。
タイトルに“居酒屋”と“タイ”が並べば、タイはお魚のタイのことだと思い、この本を手に取ってしまった方もいるかもしれない。そんなタイ国にもNGOの活動にも興味のない方にこそ、このタイへの旅を垣間見て欲しい。農や食の世界が危ぶまれているいま、僕たちはこれからどんな生き方をしたらいいのか、どんな一歩を踏み出せばいいのか、この旅に登場する仲間たちが、その示唆を与えてくれる。
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『居酒屋おやじがタイで平和を考える』(コモンズ)はじめにより

居酒屋おやじがタイで平和を考える

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『居酒屋おやじがタイで平和を考える』(コモンズ)というタイトルで本を出版した。表紙に自分の写真が掲載されるというお恥ずかしいデザインですが・・・。

第1章 タイとの出会い
第2章 日本の農業が歩んできた道のり
第3章 闘う農民バムルン・カヨター
第4章 希望を紡ぐ日本の仲間たち
第5章 むらとまちを結ぶ市場
第6章 お酒から考える自由と平和
第7章 食をみつめる
第8章 越境

 14年前に書いた『イサーンの百姓たち』(めこん)のその後についても記してはいるが、今回は、2017年11月に出かけたタイ訪問記の道中での出来事を交えながら、僕が事務局で関わるアジア農民交流センター(AFEC)の仲間たちやこの10年の居酒屋経営で出会った方たちから学んできたことを一冊にまとめた。多くの方々の言葉を借りているので、形式的には単著だが、実際のところは共著のような本。
タイやNGOに関心のある方には読んでもらいたいのはもちろんだが、今回は、普通に居酒屋でお酒を飲んでいる人たちやこうした活動に興味のない学生にも読んでもらいたいと心がけて、筆を進めた。
結びの一言は、「自分自身が安心できる食べ物やお酒を選ぶという、ある意味で自分本位な行為が、究極の国際協力であり、平和構築ではないのか。平和を願う気持ちがあるのなら、そこから第一歩を踏み出していこう」とまとめた。
是非、ご購入お願いいたしますね!

(以下、「おわりに」より転載)

おわりに
「お前さんはいいな、私なんかね、タイに住みながらこの地域から一歩も出たことがないよ」
一九九四年~九五年にイサーンの村に住んでいるとき、会議やビザ継続のために村からよく出ることがあった僕に、村のおかあちゃんが笑いながら言った。その時に改めて実感したのは、移動できることの豊かさだ。
日本に帰国してからも、国内だけではなく、タイを中心とした海外にもよく足を運んだ。でも、居酒屋を生業にして以来、その機会はめっきり減った。
お店の営業を控えた午前中に、電車で出かける用事があったときのこと。営業日だったが、店に戻らずこのまま旅立ってしまおう、と真剣に考えた。きらびやかな広大な海、新緑や紅葉の山々、稲刈り前の黄金の田園風景、白い雪景色、太陽の熱い思いが大空に広がる熱帯の国が、やっぱりいいかな。これまで訪問した風光明媚な土地を思い浮かべ、だけど本当は風景なんてほとんど気にせず、人との出逢いに喜びを感じて来たのだよな~、と電車の窓の外をぼんやり眺めていた。
そして、ふと目が覚めた。考えてみれば、居酒屋を生業にしているなんて、このうえないぜいたくだよな。日常の風景の中で、新しい人と出逢えるのだから。「帰途が旅立ちだ」と自分に言い聞かせ、ふだんどおりにお店を開けた。
たしかに、お店の経営が移動の自由を僕からちょっとだけ奪ったかも知れない。これからも旅には出かけるつもりではいるが、ぜいたくなほど移動していたあのころの僕には戻れない。この本がそんな僕の代わりとなって日本各地域に飛んで行き、少しでも多くの方々に読んでもらえることを願わずにはいられない。
本書には、僕がボランティアで事務局長を務めているアジア農民交流センターのメンバーが多く登場している。いずれも崇拝する方々なので、敬称を略すことができなかった。なお、その機関紙やお店のブログ、その他に書いた原稿に加筆した文章もあることをお断りしておく。

この本の執筆において、今回の旅を受け入れてくれたタイの仲間たちや日本からの参加者には大変お世話になりました。
とくに、農業ジャーナリストの大野和興さんは、一九九五年に出逢ってから、ずっと僕の文章の指導者であり、今回も多くの助言をいただきました。ここに深くお礼申し上げます。そして、アジア農民交流センターの共同代表の山下惣一さんと菅野芳秀さん。今回の旅にはお二人とも参加できませんでしたが、これまで僕の人生に大きな刺激を与えてくださったお礼と少しばかりの恩返しとして、この本を捧げたいと思います。
最後になりましたが、この本の出版を引き受けてくれたコモンズの大江正章さんに感謝をすると同時に、出版社という忙しい仕事をされながら、アジア太平洋資料センターをはじめ社会活動にも力を入れて取り組む熱意に敬意を表します。

二〇一八年三月一二日
松尾康範

養老孟司『虫の楽しみ』を読んで

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『居酒屋おやじがタイで平和を考える』というタイトルの本を出版する関係で、出版社コモンズの大江さんと有隣堂の商品戦略部を訪ねた。横浜・伊勢佐木町の有隣堂は学生時代から利用し、その後の酒場もこの辺りだったので、伊勢佐木町は思い出の場所。今でもちょくちょく訪れる。
帰りは、有隣堂発行『有隣』(第557)を手にして、電車に揺られた。その第一面は養老孟司『虫の楽しみ』。
その序文からぐっと惹きつけられた。
「虫の面白さを説明しようとすると、言葉に窮する。そこでアッと思う。人生、言葉にならないことが、じつはいちばん面白いんじゃないか。懸命に生きているって、そういうことでしょ」
本業界の方々が目を通す読み物の中で、いきなり言葉の限界を問う。インターネット等の影響で、本が売れない時代。ネットの閲覧も、本を読むことも、言葉や文字をツールにしていることに関しては一緒のこと。でも、「言葉にならないことが、じつはいちばんおもしろいんじゃないか」に一番近づけるのは、やはり、スマホやパソコンではなく、紙の香りや読む人の温もりを感じる本なのでは。
「ネットやフェイスブックの世界から、時々は出てみたらいかがですか」
という一文に、彼のそんな気持ちを感じた。
ラオスのことやおコメのことが書かれていたので興味深く、あっという間に読み終えたが、最後はこう括る。
「虫ほどいいものはない。あちこちにいて、何をしているのやら、よくわからないけれど、なんだか必死に生きている(略)現代人は仕方がないから生きがかりで生きている、という感じがしないでもない・・・」
どうやら虫から学ばなければならないことが、いっぱいあるようだ。

Hyakunen no mori by Mr.Sanan (Thai Language) No6

เขาเห็นด้วยกับผมเมื่อผมกล่าวกับเขาว่า ร้านป่าไม้อายุร้อยปี ของเขาเป็นต้นกำเนิดของ “ชุมชน” ชนิดหนึ่งขึ้นมา เป็นชุมชนเล็กๆ ที่คนจำนวนหนึ่งได้เข้ามาผูกพัน มีการเชื่อมโยงไปสู่ชุมชนอื่นๆ อย่างกว้างขวาง เป็นเครือข่ายทางสังคมที่มีความเกื้อกูลต่อกันอย่างแยกไม่ออก การดำรงอยู่ของชุมชนเช่นนี้แยกไม่ออกจากการดำรงอยู่ของกลุ่มเกษตรอินทรีย์รายย่อยในชนบท แยกไม่ออกจากกลุ่มผลิตเหล้าพื้นบ้าน ชาวประมงขนาดเล็ก แยกไม่ออกกับขบวนการต่อต้านโรงไฟฟ้านิวเคลียร์ที่จะสร้างความเสี่ยงความเสียหายแก่นิเวศและชุมชนชาวญี่ปุ่น และแยกไม่ออกจากขบวนการเคลื่อนไหวเพื่อความเป็นธรรมในสังคมในทุกเรื่องที่สมาชิกทุกคนของสังคมแห่งนี้เผชิญกันอยู่
และลึกที่สุด ชุมชนแห่งนี้กำลังทำหน้าที่ “เติมเต็ม”ทางจิตวิญญาณให้กันในสังคมที่วิวัฒนาการไปสู่ความยุ่งยากขึ้นทุกวันอย่างที่สังคมทุนนิยมอุตสาหกรรม สังคมบริโภคนิยม แห่งญี่ปุ่นกำลังดำเนินไป
พื้นที่ที่ทำหน้าที่เช่นนี้ คงมีอยู่มากมายทุกมุมโลก ทั้งที่ดำเนินไปอย่างเป็นธรรมชาติและพื้นที่ที่ถูกจัดวางอย่างมีเป้าหมายอย่างร้าน “ต้นไม้อายุร้อยปี” ของชายญี่ปุ่นชื่อ “แก้ว” ยาสุโนริ มัทสุโอะ คนนี้.

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Hyakunen no mori by Mr.Sanan (Thai Language) No5

กับองค์การ เจวีซี นั้นเขายังคงมีสายสัมพันธ์อันเหนียวแน่นกับคนทำงานทั้งเก่าทั้งใหม่ ส่วน เอเฟค ที่เขาเป็นเลขาธิการอยู่ในปัจจุบันได้เป็นเครือข่ายที่เชื่อมร้อยนักคิด นักเขียน นักเคลื่อนไหว ที่แตกตัวแยกย้ายกันไปสร้างพื้นที่การต่อสู้ การคิดค้นรูปธรรมของตนเองอยู่ทั่วประเทศญี่ปุ่นและประเทศเครือข่ายอื่นๆ เขามีจดหมายข่าวและโซเชี่ยลมีเดียในการติดต่อประสานกันอย่างต่อเนื่อง โดยจัดให้มีการประชุมใหญ่ปีละครั้ง
การเดินทางไปเยือนญี่ปุ่นของผมระหว่างเดือนพฤษภาคม-กรกฎาคม ๒๕๕๗ โดยการสนับสนุนของโครงการปัญญาชนสาธารณะแห่งเอเชีย (Asian Public Intellectual) มีองค์กร AFEC รับเป็นองค์กรเจ้าภาพ (Host) โดยมีแก้วเป็นคนช่วยประสานงาน แน่นอนว่าผมเดินทางเข้าไปร่วมส่วนของร้านป่าไม้อายุร้อยปี และเดินไปตามแผนที่ที่แก้วเป็นคนเขียนให้ เขาออกแบบให้ผมได้พบปะกับนักคิด นักวิชาการ นักเคลื่อนไหว ที่ร้านของเขา แล้วให้ผมเดินทางไปพบปะผู้คนและองค์กรต่างๆ ในเครือข่ายของเขา ที่จังหวัดอิบารากิ จังหวัดนิกาตะ จังหวัดยามากะตะ จังหวัดชิบะ จังหวัดฟูกุชิมะ ในจังหวัดคานากาวะและมหานครโตเกียว ผู้ที่ผมได้ไปแลกเปลี่ยน ได้ร่วมทำงานด้วยและสัมภาษณ์ ในระยะ ๓ เดือนนั้น นับได้ ๑๐๐ กว่าคน นี้เป็นเครื่องบอกความกว้างขวางของวงสัมพันธ์ของคนชื่อแก้วได้เป็นอย่างดี
การเดินทางเยือนญี่ปุ่นของผมก็กลายเป็นเงื่อนไขเป็นสีสันหนึ่งบนเรื่องที่เขากำลังทำอยู่ด้วยเช่นกัน เช่น การให้ผมได้แลกเปลี่ยนประสบการณ์และทัศนะต่างๆ เกี่ยวกับสังคม การเมืองไทย กับเพื่อนญี่ปุ่น โดยที่เขาคอยเป็นล่ามให้อยู่ขณะประกอบอาหารอยู่หลังเคาเตอร์ พิณอีสานที่ประกอบอยู่ในร้านของเขาถูกผมหยิบขึ้นมาเล่นเป็นครั้งแรก และถูกขอร้องให้เล่นเกือบทุกครั้งที่เหยียบย่างเข้าไปในร้าน ชวนเพื่อนญี่ปุ่นเอากีต้าร์มาเล่นแจมและร้องเพลงด้วยกัน บางวันเขาโทรชวนเพื่อนที่อยู่ไกลไม่ได้พบกันมาแรมปีมาร่วมสนทนาดื่มกินกัน ลูกค้าประจำของเขาส่วนใหญ่กลายเป็นเพื่อนของผมไปด้วย จนวันสุดท้ายเขาจัดงานเลี้ยงส่งผมโดยทุกคนร่วมจ่ายเป็นค่าอาหารเครื่องดื่มในงาน ผมบอกกับแก้วว่าการเดินทางมาญี่ปุ่น ไม่มีใครได้รับโอกาสและโชคดีเท่าผมอีกแล้ว

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Hyakunen no mori by Mr.Sanan (Thai Language) No4

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วันอาทิตย์ที่ ๔ พฤษภาคม ๒๕๕๗ ซึ่งเป็นวันหยุด แก้วชวนลูกค้า ๑๐ กว่าคน รวมทั้งผมด้วย ไปเยี่ยมฟาร์มเกษตรของ คัทสุมิ นากาชิมา เกษตรกรที่ส่งผักให้ร้านของเขาเป็นประจำ บรรดาลูกค้าร้านเหล้าที่เป็นคนทำงานบริษัทและอยู่ในเมืองทั้งหลาย น้อยนักที่จะเคยรู้จัก เข้าใจว่าอาหารที่เขากินอยู่ทุกวันนั้นมีที่มาอย่างไร ลูกค้านำอาหารและเครื่องดื่มกันมาสมทบในงาน นากาชิมา เจ้าของฟาร์มนั้นเลี้ยงไก่เอาไว้คอกหนึ่ง เขามอบให้ผู้มาเยี่ยมคนละตัวเพื่อให้ทุกคนได้ลงมือเชือดไก่ ถอนขน ชำแหละและนำมาประกอบอาหารด้วยมือตัวเอง คล้ายว่าแก้วอยากเห็นลูกค้าของเขาก้าวผ่านความรู้สึกบางอย่างที่ผู้บริโภคทั่วไปไม่เคยเข้าใจ พวกเขายังได้เรียนรู้เรื่องการงานอื่นๆ ที่เกิดขึ้นในฟาร์มที่ผลิตอาหารป้อนคนเมืองอยู่ทุกวัน พวกเขากินดื่มกันเมามาย เล่นดนตรี ร้องเพลง และแนะนำตัวเอง แลกเปลี่ยนทัศนะกัน ความสนิทชิดเชื้อเกิดขึ้นมากไปกว่าการเป็นผู้ซื้อกับผู้ขายผู้บริการ นี่คือความสัมพันธ์ที่ถูกถักทอจากเจ้าของร้านเหล้าเล็กๆ แห่งนั้น
ลูกค้าส่วนใหญ่รู้ว่าแก้วเคยอยู่ที่ประเทศไทย และประเทศไทย(ของเรา)นี้ก็นับเป็นดินแดนที่แสนวิเศษของคนญี่ปุ่นทีเดียว ที่พัก อาหารราคาถูก บรรยากาศสงบ อากาศสบาย ผู้คนเป็นมิตรและมีอัธยาศัยคล้ายคลึงคนญี่ปุ่น เปรียบเทียบกับการเดินทางจากโตเกียวไปเที่ยวเกาะคิวชู เกาะโอกินาวา แล้ว มาเมืองไทยยังมีค่าใช้จ่ายน้อยกว่ากัน มีอุปสรรคบ้างก็คือเรื่องภาษาพูด ในเดือนสิงหาคมซึ่งเป็นฤดูร้อนของญี่ปุ่นและมีวันหยุดหลายวันเขาจึงเลือกที่จะมาเที่ยวเมืองไทยที่อากาศกำลังเย็นสบาย บรรดาลูกค้าร้านแก้วและเครือข่ายอื่นๆ ของเขาต่างก็ใฝ่ฝันอยากมาเที่ยวเมืองไทย จึงเหมาะเจาะที่เขาจะขอร้องให้แก้วเป็นผู้นำพามาเที่ยวเมืองไทย เมื่อสองปีก่อนจึงเกิดการตกลงระหว่างคนที่อยากมาเมืองไทย พร้อมใจกันจ่ายค่าเช่าในวันที่เขาต้องปิดร้านให้กับแก้วและพากันมาเที่ยวเมืองไทย
ที่เมืองไทย สถานที่ที่เขาไปคือไปเยี่ยมเครือข่ายชุมชนที่แก้วเคยทำงานด้วย เช่น ตลาดนัดสีเขียวที่เมืองพล ขอนแก่น เยี่ยม บำรุง คะโยธา ผู้นำชุมชนที่กาฬสินธุ์ซึ่งเคยไปมาหาสู่และเป็นเพื่อนสนิทของผู้นำภาคประชาชนญี่ปุ่นหลายคน พบปะพูดคุยแลกเปลี่ยนกับองค์กรภาคประชาชนในภาคอีสานอีกหลายแห่ง ระหว่างเส้นทางก็ได้เยี่ยมชมสถานที่สำคัญต่างๆ

ในรอบ ๒๐ กว่าปีที่ผ่านมา ผู้ชายญี่ปุ่นชื่อแก้วได้พบและนำพาตัวเองเข้าไปเกี่ยวข้องสัมพันธ์กับขบวนการเคลื่อนไหวสังคมที่สำคัญหลายอย่าง โดยเฉพาะการเคลื่อนไหวของประชาชนภาคอีสาน ประเทศไทยในช่วงที่มีการเคลื่อนไหวเข้มข้น ทั้งเรื่องที่ดิน ป่าไม้ เรื่องเขื่อน เรื่องเหล้าพื้นบ้าน การต่อสู้ของเกษตรกรรายย่อยทั้งภาคการต่อต้านนโยบายรัฐและการสร้างทางเลือกเกษตรกรรมยั่งยืนในระดับพื้นที่ ขณะเดียวกันเขาก็ได้เข้าไปเกี่ยวข้องกับการเคลื่อนไหวของชาวนาญี่ปุ่นและองค์กรชาวนาในระดับภูมิภาค ที่มีพื้นที่การเคลื่อนไหวในหลายประเทศ เช่น ญี่ปุ่น ไทย ฟิลิปปินส์ และมีการก่อตั้งองค์กรเครือข่ายชาวนาชื่อ เอเฟค (AFEC : Asian Farmer Exchange Center) ที่เชื่อมร้อยขบวนการชาวนาเพื่อต่อสู้อย่างเป็นคู่ขนานกับองค์กรโลกบาลอย่าง APEC, WTO,TPP ฯลฯ
เขาได้มีโอกาสเดินทางไปพบปะกับองค์กรภาคประชาชนทั่วญี่ปุ่น และองค์กรชาวนาในหลายประเทศ ด้วยบทบาทการเป็นล่ามพัฒนาไปสู่การเป็นผู้ประสานงาน ประสบการณ์นี้ติดตัวเขามาอย่างแกะไม่ออก


Hyakunen no mori by Mr.Sanan (Thai Language) No3

เรื่องเหล้านี้เป็นเรื่องสำคัญที่แก้วและเพื่อนเจ้าของร้านเหล้าร้านอาหารใน จังหวัดคานากาวะ กว่า ๑๐ ร้าน รวมทั้งเอเย่นต์ขายเหล้าที่เน้นเรื่องเหล้าพื้นบ้าน พวกเขารวมตัวกันเป็นเครือข่าย พากันแลกเปลี่ยน ค้นคว้าเรื่องเหล้ากันอย่างแตกฉาน จากจุดเรื่องการค้นหาและส่งเสริมเอกลักษณ์ของเหล้าพื้นบ้านพื้นเมืองญี่ปุ่น เขามีแง่มุมการคิดเรื่อง “สิทธิ” ในเรื่องนี้อย่างน่าสนใจ เขามีเวทีพูดคุยเสวนากันเดือนละครั้งมิได้ขาด และจัดกิจกรรม “มหกรรมเหล้าพื้นบ้าน” ขึ้นปีละครั้ง เชิญเจ้าของโรงเหล้าพื้นบ้าน ร้านค้า ลูกค้า มาพบปะ ดื่ม ชิม แลกเปลี่ยนประสบการณ์ วิพากษ์วิจารณ์ และกระชับความสัมพันธ์ (ผมได้มีโอกาสร่วมงานนี้เมื่อวันที่ ๒๒ มิถุนายน ที่ผ่านมาด้วย เป็นงานที่สนุกและน่ารักจริงๆ)
เมื่อ ๑๐ กว่าปีก่อน ขณะที่แก้วทำงานอยู่ที่ภาคอีสาน เขาได้ซึมซับบรรยากาศการต่อสู้เรื่องเหล้าพื้นเมืองในเมืองไทย ของเครือข่ายเหล้าพื้นบ้านแห่งประเทศไทย(คลท.) และพบคำตอบว่าเหล้าพื้นเมืองในไทยกับญี่ปุ่นก็อยู่ในชะตากรรมเดียวกัน คือคนท้องถิ่นที่ต้มเหล้าเพื่อกิน เหล้าเพื่อพิธีกรรมตามความเชื่อของท้องถิ่น(พิธีกรรมในศาลเจ้าลัทธิชินโตและทุกพิธีกรรมในการไหว้ผีไหว้เจ้าในท้องถิ่นไทยมีเหล้าเป็นเครื่องเซ่นเครื่องบวงสรวงเหมือนกัน) เพื่อแลกเปลี่ยนและขายกันเองเป็นเศรษฐกิจของชุมชนท้องถิ่น เป็นเหล้าที่ผลิตจากข้าวและผลไม้ ด้วยกระบวนการที่ปลอดภัย ต่างถูกกีดกันและทำลายจากกฎหมายของรัฐและการลงทุนขนาดใหญ่ของอุตสาหกรรมเหล้าที่ผูกขาด
ที่ร้านเหล้า ร้านอาหาร “ป่าไม้อายุร้อยปี” เกือบทุกการเสิร์ฟ เขาต้องแนะนำว่าอาหาร เครื่องดื่ม เดินทางมาจากที่ไหน ลูกค้าต่างมีภาพของร้านแห่งนี้ว่าเป็นที่ที่มีเหล้าพื้นบ้านที่มีคุณภาพ จากหลากหลายแหล่ง และล้วนเป็นแหล่งผลิตรายย่อย คนที่สนใจลึกลงไปก็จะรู้จักถึงการต่อสู้การเคลื่อนไหวของกลุ่มเกษตรกรและขบวนการทางสังคมที่เกี่ยวข้องที่เจ้าของร้านยินดีที่จะพูดคุยแลกเปลี่ยนกับพวกเขาอยู่ตลอดเวลา
ลูกค้าร้านนี้เป็นคนมาจากหลากหลายอาชีพ เป็นลูกจ้าง เจ้าของกิจการ หมอ ครูอาจารย์ นักวิชาการ เกษตรกร ทนายความ คนทำงานเอ็นจีโอ ผู้ใช้แรงงาน แก้วต้อนรับลูกค้าของเขาด้วยอัธยาศัยไมตรีตามแบบฉบับคนญี่ปุ่นที่อ่อนน้อมถ่อมตัว ลูกค้าที่มาดื่มกินทั้งหลาย เท่าที่ผมสังเกตก็มักจะอยู่ในกริยามารยาทที่สงบเรียบร้อยพอสมควร (ไม่เหมือนวงกินเหล้าในบางที่บางแห่ง) ลูกค้าจำนวนมากมายที่มาคนเดียวและมาพบเพื่อนผูกมิตรกันที่นี่ โดยเจ้าของร้านจะสนทนาพาทีกับลูกค้าของเขาทุกคน และจงใจแนะนำให้ลูกค้ารู้จักซึ่งกันและกัน สำหรับเรื่องนี้เขามีเป้าหมายที่แน่นอน เขามักจะถ่ายรูปร่วมกับลูกค้าของเขาเป็นกลุ่มๆ แล้วโพสต์ลงหน้าเฟสบุคของเขา และหน้าเพจของร้าน การสนทนาในหน้ากระดานเฟสบุคก็จะดำเนินไปมากกว่าการสนทนาในร้าน การได้รู้จักรู้ใจกันของกลุ่มคนที่มีประสบการณ์ร่วมสามารถก่อตัวเป็นอะไรได้ตามที่ คนที่เกี่ยวข้องมีเจตนา


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Hyakunen no mori by Mr.Sanan (Thai Language) No2

เขายังร่วมกับ เสน่ห์ วิชัยวงศ์ ประธานคณะกรรมการประสานงานองค์กรพัฒนาเอกชน (กป.อพช.อีสาน)ในขณะนั้น แปลหนังสือประสบการณ์การพัฒนาในประเทศญี่ปุ่นและจัดพิมพ์ในประเทศไทยชื่อ “เศษอาหาร ฟื้นดิน ฟื้นชีวิต” ซึ่งเขียนโดย คานโนะ โยชิฮิเดะ นักเคลื่อนไหวสังคมคนสำคัญของญี่ปุ่น และหลังจากกลับไปญี่ปุ่น เขาเขียนหนังสือประสบการการณ์เคลื่อนไหวอันเข้มข้นของประชาชนอีสานในทศวรรษก่อน พิมพ์จำหน่ายในประเทศญี่ปุ่น เขายังมีบทบาทสำคัญขบวนการเคลื่อนไหวของประชาชนญี่ปุ่นและภาคประชาชนจากหลายประเทศในเอเชียในนามขององค์กร เอเฟค (AFEC : Asian Farmer Exchange Center) ในปัจจุบันเขายังดำรงตำแหน่งเป็นเลขาธิการของ เอเฟค และช่วยประสานงานให้กับกิจกรรมต่างๆ อีกหลายองค์กร โดยงานเหล่านี้เขาทำโดยใจอาสา
บทบาทแท้จริงของเขา ๘ ปีมาแล้วก็คือเป็นเจ้าของร้านเหล้าชื่อ ป่าไม้อายุร้อยปี แห่งนี้ อาชีพเล็กๆ ที่เขาเลือกสำหรับหารายได้เลี้ยงครอบครัว เขานำประสบการณ์การทำอาหารและการทำร้านอาหารที่เรียนรู้ตั้งแต่ครั้งเป็นนักศึกษา และใช้ประสบการณ์การจัดการจากการทำงานมาใช้ในร้านของเขาอย่างเต็มที่ และเขาก็ยังพกเอาแนวคิดที่ก้าวหน้าจากการทำงานกับชุมชนในฐานะ เอ็นจีโอ คนหนึ่ง มาปะทะสังสรรค์กับลูกค้าของเขาตลอดเวลา
เขาบอกกับผมว่าคนที่มาเมาที่นี่จะได้เมาอย่างมีประโยชน์ และเท่าที่ผมอยู่คลุกคลีกับเขาตลอด ๓ เดือนที่อยู่ญี่ปุ่น มันเป็นเช่นนั้นจริงๆ จนไม่เกินเลยนักที่ผมจะกล่าวได้ว่า คนที่มาดื่มกินที่ร้าน ป่าไม้อายุร้อยปี แห่งนี้ ขณะที่ดื่มสาเก เหล้ากลั่น น้ำชา น้ำหวาน และอาหารญี่ปุ่นเต็มแบบฉบับแล้ว เขายังจะได้ดื่มกินเอาแนวความคิดที่ก้าวหน้า ความยุติธรรม และความยั่งยืนของโลกเข้าไปพร้อมกันด้วย
อาหารเกือบทุกอย่างในร้านของเขา เจาะจงใช้พืชผักจากแปลงเกษตรอินทรีย์ซึ่งเขาซื้อตรงจากฟาร์มของเกษตรกรที่คบหาเป็นเพื่อนสนิท กุ้งหอยปูปลาเขาขับรถไปซื้อจากชาวประมงขนาดเล็กและสหกรณ์การประมงที่ฝั่งทะเลตำบล นากาอิ สัปดาห์ละ ๓ ครั้ง เครื่องดื่มทุกชนิดมีที่มาจากเครือข่ายชุมชนที่มีความสัมพันธ์กันมาก่อนในขบวนการเคลื่อนไหวทางสังคมในรอบ ๔๐ ปีที่ผ่านมา
เหล้าสาเก ๔ ยี่ห้อที่เขาแนะนำกับผมมีที่มาอันน่าทึ่งอย่างยิ่ง เหล้า อิชิโช มังโป (Ichi cho man pou )จากจังหวัดฟูกูโอกะ เกาะคิวชู เป็นผลผลิตจากการทำนาข้าวอินทรีย์ของชาวนากลุ่มหนึ่ง นำข้าวไปฝากโรงเหล้าของเพื่อนบ้านผลิตเป็นเหล้า เหล้า มาโฮโตะ( Mahoto) จากกลุ่มชาวนานักต่อสู้กรณีสนามบินนาริตะ จังหวัดชิบะ ที่มีประวัติการต่อสู้อย่างเข้มข้นตลอด ๔๐ กว่าปีที่ผ่านมา ปัจจุบันเขาก็ยังรวมตัวเป็นสหกรณ์ชื่อ วันแพ็ค(One Pack) ข้าวจากนาอินทรีย์ของพวกเขาถูกส่งไปผลิตเหล้าในโรงงานที่จังหวัด ไซตะมะ เหล้า โอกาวะ โน ชิเซน ชู (Ogawa no shizen shu) จากกลุ่มเกษตรอินทรีย์เมืองโอกาวะ จังหวัดไซตะมะ ซึ่งมีเกษตรกรชื่อดังคือ คาเนโกะ มิซาโตะ เป็นอาจารย์ใหญ่ด้านเกษตรอินทรีย์ที่มีสานุศิษย์มากมาย และยังมีเหล้าสาเก โยมิไกดุ (Yomi kaidu) จากเมือง นากาอิ ซึ่งปัจจุบันเจ้าของโรงเหล้าที่อพยพหนีภัยกัมมันตรังสีจากโรงไฟฟ้านิวเคลียร์ฟูกุชิมะ ไปใช้ข้าวพันธุ์พื้นบ้านผลิตเหล้าสาเกคุณภาพดีอยู่ที่เมืองนากาอิ เครื่องดื่มอื่นๆ เช่นเบียร์ ก็เน้นเบียร์ยี่ห้อเล็กๆที่ผ่านการคัดเลือกคุณภาพอย่างดี น้ำส้มน้ำหวานจากสหกรณ์ชีวิตซึ่งเป็นสหกรณ์ผู้บริโภคที่ประสานกับกลุ่มเกษตรกรผู้ทำเกษตรอินทรีย์โดยเฉพาะ

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Hyakunen no mori by Mr.Sanan (Thai Language) No1

เครือข่ายสังคม
ที่นับจากร้านเหล้าของ ยาสุโนริ มัทสุโอะ
โดย สนั่น ชูสกุล /สิงหาคม ๒๕๕๗

ที่หัวมุมถนน นิชิกุชิ ซากาเอะ ใกล้สถานีรถไฟฟ้า เกกิว กุริฮามา ตำบลกุริฮามา เมืองโยโกสุกะ จังหวัดคานากาวะ เป็นที่ตั้งของร้านเหล้าเล็กๆ ชื่อ ฮิยะกุ เนง โน โมริ -Hyaku nen no mori ซึ่งแปลว่า “ป่าไม้อายุร้อยปี” หน้าร้านมีป้ายไม้เป็นภาษาไทยเขียนว่า “ร้านแก้ว ร้านเหล้าญี่ปุ่น” เป็นเพียงร้านเล็กๆ เพียงมีลูกค้า ๑๕ คนก็เต็มร้านแล้ว แต่ในนั้นมีสาระที่ไม่ธรรมดาให้ค้นหา
ร้านเหล้าเป็นสถานที่สังสรรค์ของคนญี่ปุ่นยามเลิกจากการงานอันคร่ำเครียด เป็นที่ละลายพฤติกรรมของเพื่อนร่วมงานและของเจ้านาย-ลูกน้อง นอกเหนือจากความสัมพันธ์อย่างเป็นทางการอันแข็งกระด้างในองค์กรสมัยใหม่ เป็นที่เหมาะสำหรับนัดพบปะพูดคุยของมิตรสหายเพื่อกระชับมิตรภาพ แต่ที่ ร้านป่าไม้อายุร้อยปี เป็นมากกว่านั้น
เจ้าของร้านแห่งนี้คือ ยาสุโนริ มัทสุโอะ ชายญี่ปุ่นอายุ ๔๔ ปี เขามีชื่อภาษาไทยว่า “แก้ว” ด้วยเขามาทำงานและใช้ชีวิตอยู่ที่ภาคอีสานอยู่ถึง ๕ ปี และในระหว่าง ๒๐ ปีที่ผ่านมาเขาได้คลุกคลีและไปมาหาสู่กับเพื่อนคนไทยตลอดมา พูดภาษาไทยได้คล่องแคล่ว ซึมซับเอาบุคลิกแบบคนอีสานไว้อย่างกลมกลืน เครื่องประดับร้านของเขาจึงมีกระติบข้าว ไซดักปลา ผ้าขาวม้าย้อมครามและผ้าลายอีสาน พิณและแคนอย่างละตัว ภาชนะในร้านก็มากมายที่เขาขนไปจากเมืองไทย
ผมรู้จักกับแก้วเมื่อเขามาทำงานให้กับองค์กรพัฒนาเอกชนชื่อ เจวีซี ระหว่างปี ๒๕๔๓ – ๒๕๔๗ ก่อนหน้านั้นเขามีประสบการณ์มากมายเกี่ยวกับเมืองไทย ตั้งแต่เขาเป็นนักศึกษาอยู่เขาทำงานเก็บเงินมาเที่ยวเมืองไทยถึง ๒ ครั้งในปี ๒๕๓๔-๒๕๓๕ มีเพื่อนเป็นคนไทยหลายคน ด้วยความประทับใจจึงทำงานพิเศษในร้านอาหาร เก็บเงินและขอมาเป็นอาสาสมัครให้กับองค์การ เจวีซี โดยใช้เงินของตัวเอง ทำงานอยู่ที่อำเภอลำปลายมาศ จังหวัดบุรีรัมย์ปีหนึ่งเต็มๆ เมื่อปี ๒๕๓๗ จากนั้นก็บรรจุเป็นเจ้าหน้าที่ เจวีซี อยู่ที่โตเกียว รับผิดชอบการสนับสนุนงานของ เจวีซี ในประเทศไทย ก่อนมาอยู่ภาคอีสานอีก ๔ ปี
ที่ภาคอีสานเขามาตั้งสำนักงานที่ขอนแก่น และทำงานร่วมกับองค์กรพัฒนาเอกชนและองค์กรชุมชนที่ทำเกษตรกรรมยั่งยืนในหลายพื้นที่ แก้วมีบทบาทสำคัญสนับสนุนการจัดตั้งตลาดอาหารท้องถิ่น หรือตลาดนัดสีเขียวขึ้นเป็นแห่งแรกๆ ในประเทศไทย โดยเฉพาะที่อำเภอเมืองพล ขอนแก่น ที่ตั้งขึ้นในปี ๒๕๔๕

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今年の「日本酒じゃぶじゃぶ」は若林酒造と! ~日本酒の酸味は、人間で例えると背骨

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横須賀の掛田商店を通じて出会った神奈川や東京の飲食店仲間から構成されている『一滴の会(ひとしずくのかい)』。日本酒文化を飲食店の立場から底上げすることを一つの目的としている。
その『一滴の会』主催の毎年恒例の『日本酒じゃぶじゃぶ』は今年で第8回を迎えた。2018年5月14日(日)に開催され、昨年と同様に、横浜市金沢区にある横浜研修センターにお世話になり、一部150人、二部150人のお客様が参加され、会は盛大に盛り上がった。今年は、11の蔵元に協力してもらい、各飲食店がペアーを組み、百年の杜は、銘酒「開春」で知られる、島根県の若林酒造にお世話になった。
若林酒造は「開春 石のかんばせ」、「開春 おん」、「開春 生もと 山口」の3つのお酒をご用意してくれた。「石のかんばせ」は、甘味を特色としたお酒で、冷酒でご提供、「おん」と「生もと 山口」は、冷やか燗でご提供した。どのお酒も酸味をうまく生かした特色のあるお酒だ。
「日本酒にとっての酸味は、人間で例えると背骨。それがないとふにゃふにゃになってしまいますよね」
この若林邦宏社長の言葉が印象的だった。

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さて、百年の杜が用意した酒肴は、ビーツを加えた「酒粕入りポテトサラダ」。見ためはサーティワンのアイスクリームのようだが、味はけっして甘くなく塩味。お陰様で、一部は約180皿と参加人数を大幅に上回り、二部は大抵の方がお昼ご飯を食べて来てしまっているので、参加人数分には至らなかったけど、すごく美味しい、と1人で7皿のお代わりをしてくれた方がいたのには嬉しかった。
一部と二部終了後、仲間たちは急いで会場を片付け、同じ施設内に用意された別の部屋で蔵元を囲んで、打ち上げ会。これがこのイベントの醍醐味!また新しい方々との出会いを生んでくれた。
その後の飲み会には、参加せずにまじめに帰途に立ち、金沢八景駅で京急に乗り換えると、会に参加してくれたご常連とホームでばったりと。一部参加のメンバーだったので、12時から21時過ぎまで、ずっと飲み続けていたらしい・・・。
まあ、とにかく毎年この「日本酒じゃぶじゃぶ」は充実した一日となる。

参加していただいた皆様に感謝いたします。

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日本酒じゃぶじゃぶならぬ、ガブガブと!

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      「杜の蔵」の森永一弘氏(左)

僕たちの大事な日本酒の文化を飲食店の立場から底上げすることが出来ないかと横須賀の掛田商店を通じて出会った神奈川や東京の飲食店仲間が集まり、『一滴の会(ひとしずくのかい)』が産声を上げたのは、2010年4月のことだ。百年の杜も参加させていただいている。蔵元を講師とした勉強会や酒蔵見学を重ね、日本酒の面白さ、奥深さを学び、日本酒とそれにあった食文化を継承していくことに努めている。

そしてその1年後に3.11が起こった…。東日本の酒蔵の思いを少しでも分かち合うことが出来ないか、と同年6月、被災地の酒蔵と共に「東酒じゃぶじゃぶ」を開催、翌年以降は、繋がりのある日本全国の酒蔵にも協力してもらい、「日本酒じゃぶじゃぶ」は、毎年恒例のイベントとなった。

そして第6回の今年は、2016年5月29日(日)に汐入のホテルハーバーにて開催し、13の酒蔵に協力してもらい、ご来場者は一部150名、二部150名の規模となった。

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僕は、親しくさせて頂いている「杜の蔵」の森永一弘さんとペアーを組んだ。

飲食店にとって毎年の課題は、ペアーを組んだ酒蔵の日本酒にあったおつまみ作り。百年の杜はこれまで、宮城屋の豆腐にお酒にあった3種類のつけダレを合わせたものや、3類のポテトサラダを提供したりした。

環境保全型農業に取り組む横須賀市長沢「ながしま農園」の野菜を使いたい、この時期は新ジャガが美味しい、そしてポテトサラダは百年の杜でも好評の料理なので、今年もポテトサラダでいきたい、と森永さんに相談したが、せっかくだから前回と違う形でチャレンジしよう、と提案があり、毎年必ず提供する「独楽蔵 玄」を「独楽蔵 悠五年 純米古酒」に代え、その燗酒にタイ料理を合わせることになった。

「独楽蔵 悠五年 純米古酒」、「独楽蔵 無農薬山田錦六十」、「杜の蔵 二の矢 夏生」と「春雨と野菜のタイ風炒め物」、「キュウリと新玉ネギの釜揚げヒジキ和えサラダ」のコラボだ。

「キュウリと新玉ネギの釜揚げヒジキ和えサラダ」は、全く問題なかった。杜の蔵の麹ドレッシングと百年の杜の自家製ドレッシングをミックスさせ、「杜の蔵 二の矢 夏生」と「独楽蔵 無農薬山田錦六十」に合わせた。問題は「春雨と野菜のタイ風炒め物」。作りたてであれば、多少は自信があったが、前もって仕込んでおかなければならないという制約がある。炒め物なので、時間が経って水分が抜けてしまうとどうしても味が濃くなってしまうので、かなり薄めに味付けしておくことにした。当日の朝に試食してみたら、案の定薄味だったので、ナムプラー(タイの魚醤)と唐辛子の付けダレを別途用意し、提供する直前にそのタレをかけることにした。

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「え~タイ料理に日本酒?」というお客様からの声を聞きならが、「独楽蔵 悠五年 純米古酒」とともにご提供した。悠五年は、5年以上寝かした古酒。当日の悠五年は、9年間一度も冷蔵されずに屋根裏で寝かされたものだった。その成熟した日本酒がタイ料理独特の味を見事にやさしく包み込んだ。会場にはアジア料理好きの方が以外にも多く、おかわりも続出した。備えて置いたパクチーも大好評だった。

「お肉料理や油物、スパイシー系など、日本人の食べる物が以前と比べ多様化し、従来の品のある日本酒だけではなく、そうした現代の食にあった日本酒を作りたい、日本酒が持つ潜在力、可能性を充分に発揮したしという思いをもってこの悠五年を造りました。寝かせた日本酒、古酒のほとんどは、原酒でチビチビというのがほとんどですが、この悠五年は、もっとガブガブ飲んでもらいという気持ちから、アルコール度数を14度にする等の工夫を加え、飲みやすい古酒に仕上げています。僕たちは『ガブ飲み古酒』とよんでいますよ(笑)」

とは、森永一弘さんのお言葉。

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じゃぶじゃぶならぬ、ガブガブだね!当日は懇親会もあり、僕もじゃぶじゃぶと、ガブガブと日本酒を飲み、いい気持ちになりましたよ。

一滴の会に感謝、日本酒に感謝、そして、ご参加していただいた皆様に感謝、感謝です!

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        集合写真(写真提供「一滴の会」)

居酒屋から紡ぐ社会のネットワーク byサナン・チュサクン

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2年前、2014年の5~7月にかけて3か月間来日したサナン・チュサクン氏が、2016年4月6日(水)に亡くなられた。

彼は、『イサーンの道』というタイの雑誌の2014年9月号に僕と百年の杜のことを綴ってくれた。嬉しくて何度も読み返したが、過大評価し過ぎていること、自分のことだから恥ずかしいということもあり、日本語には訳していなかった。彼が火葬された今日、お店の定休日と重なったため、家に引きこもり、その文章を訳すことに決めた。サナンさんが僕に残してくれたお土産に感謝し、ご冥福をお祈りいたします。

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  左からイサーンの農民リーダー、バムルン・カヨター氏、わたくし、サナン・チュサクン氏

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居酒屋から紡ぐ社会のネットワーク
-Yasunori Matsuo-

  サナン・チュサクン นายสนั่น ชูสกุล
 
ここは神奈川県横須賀市久里浜。京急久里浜駅近くの栄通りの角に、小さな居酒屋がある。屋号は、“百年の杜”(Hyakune no mori)入口にはタイ語の看板もあり、「日本の居酒屋 ゲーオの居酒屋」と書かれている。15人で一杯になる小さな居酒屋だ。しかし、その中には普通ではない、探索したくなる物語が隠されていた。

居酒屋は日本人にとって、一日の仕事や雑務が終わり、その疲れを癒す場所となっている。友人や仕事の上司と部下、昔からの仲間や新しく出会った仲間たちが、そこに集まって歓談、親交を深めるにはとっておきの場所だ。しかし、百年の杜の中にはそれを超えるものがあった。

(百年の杜:コンケン県のヤナーン・ノンテー村の活動で、畑づくりと植林を一緒にして、子孫に自然資源を残す活動があり、そこからこの店名がつけられた。)

この居酒屋の店主の名は松尾康範(Yasunori Matsuo)。44歳(1969年生)。ゲーオというタイのニックネームを持つ。タイに計5年間滞在した経験を持つ。この20年の間、タイの仲間たちと親しい関係を築きあげてきた。流暢なタイ語の中に、イサーン(東北タイ)人の口調、雰囲気を交えているのが特徴的だ。お店の中にもイサーンのもち米入れやお魚を捕まえる道具、草木染めの布、ピンやケーン(イサーンの楽器)が飾られている。料理を入れる器の一部にもタイから持ってきたものを使用している。

私は、ゲーオが2000年~2004年の間、日本国際ボランティアセンター(JVC)の活動でイサーンに滞在しているときに知り合った。しかし、彼は既に学生時代からタイに関わり、アルバイトで貯めたお金で、在学中に2回タイを訪れた。1991~1992年頃には、日本で沢山のタイの友人をつくり、彼らと交流をしながらタイ語を学んだ。大学卒業後は1年間広告会社に勤めた経験もある。

(JVC:Japan International Volunteer Centerは、1980年、インドシナ難民救援活動に携わる日本人たちによって、タイで設立された。その後、タイでも他の地域や活動形態を増やした。本部も東京に移し、現在は他のアジアやアフリカの国々でも活動している。)

その後、JVCに志願し、自費で、JVCの活動地のあるブリラム県ラムプライマートで1年間(94-95年)ボランティア活動に携わった。帰国後もNGOの活動に携わり、再びタイに4年間滞在する前の1997年~2000年には、JVC東京事務所のタイ事業担当を務めた。

2000年、コンケン県にJVCの事務所を構え、持続可能な農業を勧めるグループと一緒に活動した。その中でゲーオの大切な役割は、地域の糧を提供する市場づくりをすすめることだった。そして、2002年、イサーンの中で初めてと言っていい、緑の市場をコンケン県ポン郡に設立した。

その間、彼は、当時イサーンNGOCOD(NGO連絡調整委員会)の委員長を務めていたサネー・ウィチャイウォンさんと協力しあい、日本の地域開発が描かれた、菅野芳秀著『生ゴミはよみがえる』を翻訳した。菅野さんは日本に欠かせない社会活動家の一人だ。

また、彼自身もタイにおける運動の経験やイサーンの人々の歴史や物語を書いた本を日本で出版した(『イサーンの百姓たち』めこん/2004)。

彼は他にも大きな役割を担っている。日本の運動家、アジアの仲間たちとネットワークを持つアジア農民交流センター(AFEC)の事務局長を務め、それ以外にも様々な活動に携わっている。

しかし、彼のこの7年間(2014年時点)の中心的な仕事は、スモールビジネスである小さな居酒屋の経営である。そこで得た収入で家族を養い、学生時代から学んでいた料理の経験を生かすことも出来ている。これまでの彼の経験を充分に生かし、NGOの活動で得た経験も応用しながらお客さんたちと接している。

彼は私に語りかけた。「酔いに来たお客さんは、ただ酔うだけではなく、有益に酔っているんだよ」と。私自身、3か月間その様子を見ていたが、全くその通りだった。日本酒、焼酎、ソフトドリンク、料理といった提供するほとんどのものに意味があり、これから先の世の中、我々の住む地球の持続性や公正と言ったことまでも考慮したものを扱っているのだ。

食材のほとんど全てにおいてこだわっており、例えば、野菜に関しても環境保全型農業に取り組む親しい仲間の畑で育ったものを直接仕入れ、魚介類に関しても、小漁民が獲った魚が売られている市場に、自ら車を運転して仕入れに行っている。飲み物に関しても彼がこれまで築きあげてきたネットワークを生かし、この40年間の日本の運動が秘められたものもある。

彼が紹介してくれた4つの日本酒を紹介する。

『一鳥万宝』。九州の福岡県で有機農業(合鴨農法)を営む生産者からの米を知り合いの酒蔵に預けて造られている。

『真穂人』。40年の闘いの歴史を持つ成田空港反対運動。その運動に関わった方たちが、現在でも千葉県成田で「ワンパック」という生産者グループの活動を続けている。また、無農薬で育てた酒米は、信頼のある埼玉県の酒蔵に届けられ、このお酒が生産されている。

『小川の自然酒』。埼玉県小川町の有機農業グループのお米で造られている。その先駆者である金子美登さんやその弟子たちの活動の一環である。

『甦る』。この酒蔵は、福島原発の避難対象地域から山形県長井市に移り、長井在来の酒米を使って、仲間たちと酒造りを継承している。

その他のお酒に関しても選び抜かれたものばかりで、ジュースに関しても生産者から直接送られてきたもので、みかんジュースは生産者グループと結びつく生活クラブからのお届けものだ。

彼は、非常に興味深い日本酒のグループ(一滴の会)にも関わっている。神奈川県やその他で飲食店や酒屋を営む10人以上の仲間が集まり、ネットワークとなり交流、地酒の促進活動、日本酒の探求、日本酒の持つ独自性を学び合っている。お酒を通じて、人々の”権利”という視点を持っていることも興味深い。このグループは月に一度のペースで集まり、年に一度、大きなイベントを開催している。酒蔵のオーナーやお店のメンバー、そのお客さんたちが集まり、その会場で顔を合わせる。酒やおつまみを味見しながら、その関係を論じたりもする。私も2014年6月22日にその集まりに参加させていただく機会を得たが、とても楽しく、親しみのある会だった。

10年以上前、ゲーオがイサーンに滞在していたとき、タイの地酒を促進する活動、タイの地酒を取り戻す闘いに触れた経験から、タイも日本のお酒も同じ道を歩んできたと彼は言う。地域の人々は自分たちが飲むお酒を作る。そして地域を信仰する儀式のためにお酒はある。日本でも地域にある神社、タイでも地域で神を祀るためにお酒はある。

本来お酒は、地域経済の中で交換、売り買いされる。お米や果物を原料に安全な行程を経てお酒は造られる。しかし、それが国の法律によって妨げられ、その文化が壊れ、しまいには大資本家の手に渡り独占されている。

彼は、百年の杜で提供している食材やお酒のほとんどを、どこで生産されたのか、どんな道を辿って来たのかを説明出来る。お酒に関してもどんな材料で作られたものなのか、というだけではなく、興味を持ったお客さんに関しては、そのお酒が持つ社会的背景、例えば、農民や市民の闘いの中で生まれたものであることを説明する。

百年の杜には、サラリーマン、市民グループのリーダー、お医者さん、学校の先生、農民、弁護士、研究者、NGOスタッフなど、様々なお客さんがやってくる。彼は彼の持つ気質を生かして、親しく、謙虚にお客さんに対応している。私が見た限りでも、他の店に比べ、お客さんたちも、周りとの関係をうまく気遣いながら接し、一人で来たお客さんもこのお店の仲間たちと気兼ねなく交流出来る。新しいお客さんと分かれば、他のお客さんを紹介して一緒に会話をする。そうした様子から、仲間たちの出会いの場を提供することをお店のコンセプトの1つにしていることが伺える。時には、お客さんたちが写真を撮りあって、フェイスブックに投稿したりする光景も見られる。お店でもフェイスブックページを作り、お店では話さないことなども投稿している。お客さん同士が知り合い、お互いの気持ちを知る中で、そこでまた新しい活動が生まれたりもしている。

2014年5月4日、お店の定休日に、ゲーオは10人以上のお客さんと私を連れ、長島勝美さんが営むながしま農園を訪れた。お店の野菜はこの農園からやってくる。仲間たちがお酒を持ち合い、長島さんは小さな鶏舎にいる鶏を一人一人に提供した。皆は、鶏を屠殺、毛をむしり、さばき、料理をする経験を得た。ゲーオは、一般の消費者ではなかなか理解出来ない、命をいただく大切さをお客さんに見てもらいたかったのだ。参加者たちは、都会の人も毎日食べている食べ物の大切さを改めて学んだ。そして、お互いを紹介し、交流し、食べ、飲み、歌いながら一日を楽しんだ。小さなお店の店主を通じて、生産者と消費者が結ばれるいい機会となった。

お店の常連のほとんどが、ゲーオがタイに住んでいたことを知っている。静かな佇まい、快適な天候、物価が安い、美味しいタイ料理、そして日本人にとって親しみやすいタイ人の性格もあり、タイは日本で人気がある。東京から、九州や沖縄に行くよりも経費を安く抑えられる。問題をあげるなら言葉の壁ぐらいだ。

8月はタイにとっては涼しくなる季節だが、日本にとっては夏。そして夏休みがある。そんな2年前の8月に、お店のお客さんからゲーオが案内するタイに連れて行ってという要望があり、参加者はお店を休む分のカンパを出し合い、タイの旅に出かけた。訪問先は、ゲーオが働いていた地域やネットワークを持つ地域。例えば、コンケン県ポン郡の緑の市場や、日本の仲間たちと親しい関係を持つ、カラシン県の農民リーダーのバムルン・カヨターさんの住む地域を訪れ、他にも面白い活動に取り組むイサーンの各地を訪問して交流した。

この20年間、ゲーオという名の日本人は、タイ、特にイサーンの地域で、人々の運動に接してきた。土地の立ち退きの問題、森林問題、ダム問題、地酒を取り戻す運動、小農民の闘い、政府の方針に対するアドボカシー活動、持続可能な農業づくりに関わる人々と交流してきた。同時に日本の地域活動に取り組む人々、タイだけではなく、フィリピンなどの他の国々の人たちとも交流してきた。このように、彼がこれまで、日本全国の地域の活動や他の国々の農民グループを訪れ、コーディネート、通訳の仕事に携わってきた経験は計り知れない。

日本国際ボランティアセンター(JVC)の仲間たちともまだ密接な関係を続けている。事務局長として関わるAFECは、年に1回の総会を開き、定期的に機関紙を発行している。様々なネットワーク、ジャーナリスト、運動家をつなぎ、各地域では、地域を軸としたオルタナティブな活動を展開している。また、AFECは、それぞれの国や地域でWTOやTPPなどの大きな流れに反対する仲間たちを結びつける役割を持っている。

今回の私の日本訪問は、2014年5月から7月にかけての3か月間。日本財団アジア・フェローシップ(APIフェローシップ)から研究予算を得て、アジア農民交流センター(AFEC)が受け入れ先となり、ゲーオがそのコーディネートを担ってくれた。百年の杜を拠点に、ジャーナリスト、研究者、運動家とも顔を合わせてくれた。そして、彼の企画をもとに、日本の各地域を訪れた。茨城県、山形県、新潟県、千葉県、福島県、神奈川県、東京と様々な地域を訪れ、一緒に働かせてもらいながら、沢山の人たちにインタビュー、交流をすることが出来た。親しくしてくれた人たちの数は100人を超えた。

実際の活動を共にした交流は有意義なものとなった。百年の杜のカウンターでは、社会情勢やタイの政治のことなども話した。ゲーオはカウンター越しで料理を作る間に通訳をしてくれた。また、ゲーオは店に飾られているイサーンのピン(弦楽器)をほぼ毎回、私に手渡した。このピンは、いつもは飾られていただけで、私が初めての演奏者だったようだ。日本の仲間がギターを持ってきて、一緒に演奏して歌を歌ったこともあった。彼自身もしばらく会っていなかった知人を誘って交流する日もあった。百年の杜のご常連、ほとんど全員が私にとって友だちのようだった。最後の日にはそのお客さんたちと送別会も開催してくれた。私はゲーオに告げた。「日本に来た仲間たちの中で、私ほどこんなにいい機会、幸運の旅を出来た人はいない」と。

彼は私の意見に同感してくれた。百年の杜は、ひとつのコミュニティーを創りだす源流の役割を担い、一人の人と人を結びつけ、新しいコミュニティーの生まれる拠点となっている。そしてそれがまた違うコミュニティーの活動に結ばれていくのだ。そしてその流れは、やがて大きな潮流になり、社会を支え合うネットワークになっていく。このようなコミュニティーは、小農民の有機農業のグループ、小漁民、小さな酒蔵のグループ、原発の被害にあい、反対運動に関わるグループや様々な地域で公正な社会を求めて活動するグループと切り離すことは出来ない。こうして我々の社会はつながり合っていくのだ。

このコミュニティーは、まだまだ果たさなければならない任務がある。この精神が、現在の混乱した社会、消費社会、資本主義社会の中にまで、入り込んで行かなければならない。

Yasunori Matsuo。ゲーオという男の百年の杜。このような目標、任務を持った同じような拠点は、きっと地球の所々にも存在して、自然体の形で取り組まれていることだろう。

(『E-SHANN WAYS』Sep/2014 by Mr.Sanan Chusakun)

医食同源ということで快医学講座

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食を提供する仕事をしている。ニセモノの食材が氾濫しているこの時代に、その流れに少しでも反乱する必要を感じ(^^;;、店ではできる限り、ホンモノというより、あたりまえの食材を提供するようにしている。

食と同様に、医療や薬の業界も金に浸かって、ニセモノが横行しているようだ。病院に行って、医者の言うことを鵜呑みにし、中味に何が入っているかも分からない薬を摂取する。いつまでも治らないどころか、また別の病気にかかってしまうようなケースは日常茶飯事。

医食同源。食に関わる以上は、その医の方も少しは勉強しなければ、と2016年2月28日(日)に、東京の白山で開催された快医学入門講座に参加した。講師は我妻啓光さん。

快医学はまさにあたりまえの医療。命を他人である医者に委ねるのではなく、自分たちの手に取り戻すことを目的としている。

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今回の講座では、快医学の生い立ちから始まり、身体の歪みを正す操体法と内臓を温めることで体液循環と内臓を活性化させる温熱療法(*当日配布された快医学ネットワーク作成の資料を写真添付しますのでご参照下さい!)を座学と実践の両方で学んだ。二つとも、息・食・動・想・環のバランス、歪みを正して、快い方向に持っていくという快医学の要となる治療方法だ。

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さて、さて、以前のブログの繰り返しになるが、我妻さんとの出会いは21年前。タイの農村に滞在している時だった。我妻さんは、快医学をお土産としてタイの伝統医学に関わる方たちと交流し、僕が滞在していた東北タイもその大事な拠点だった。

そんな出会いから、昨年は二回も百年の杜主催で、快医学講座を開催して勉強したばかりたったので、正直、今回僕は、快医学を学ぶ事よりも、我妻さんや参加者たちと、講座終了後に飲み交わすことを一番の楽しみにしていたが、繰り返し学んだことで、快医学への理解がさらに深まり、充実したひとときとなった。

また、自分自身の身体のための参加でもあった。二年前に我妻さんに身体チェックしてもらったときに、食道の免疫機能がボロボロに低下していたことが分かり、この二年弱、操体法、温熱療法、食事療法、薬草茶療法を継続し、ときにはソフト断食や断食、禁酒を繰り返した。食道機能低下の原因の一つに、酒の飲み過ぎがあることが分かっていたが、その間も酒の飲み過ぎた日はあったが…。

今回の講座の一環で、再び自分の身体をチェックしてもらったが、これまでにないいい結果で安心した。胸腺の免疫機能低下はなくなり、食道下部が少しだけ機能低下している程度だった。これまでの努力が少しは報われたようだ。

ということで、懇親会では、また飲み過ぎてしまったことは言わずもがな…。

3月27日(日)にも、今回の講座の続きがあるので楽しみだ。近代的な器具を使わず、患者の病状をチェックすることができ、それにはどんな薬草が合うか等、単時間でその治療法までも知ることが出来るライフエネルギーテスト(LET)と脳脊髄液の調整を行う頭蓋仙骨療法を学ぶことが出来る。

我妻さんや参加者の方々との交流がまた楽しみだ。まあ、また飲み過ぎてしまうに違いないだろうけど、ご一緒に酔っ払いたい方は是非ご連絡を!^_^;

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長田浩昭住職のお話し 最光寺にて

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2015年11月15日(日)に真宗大谷派『最光寺』で開催された長田浩昭氏を講師に招いた研修会に参加する機会を得た。長田氏は、兵庫県にある真宗大谷派『法伝寺』のご住職で、「原子力行政を問い直す宗教者の会」の事務局を務めている。

初めに、日本には17地域に54基の原発がある実情を話された後に、その数とは合わない、1~34の番号をふった日本地図をスライドに映し出した。それは、70年代以降に原発建設計画が浮上した箇所で、反対運動によって中止に追い込んだ地域だ。

長田住職の出身地、石川県珠洲市はまさにその地域の一つで、反対運動のリーダーとして関わった経験を、怒りを表しながら語る姿は印象深かった。地域が真っ二つに引き裂かれ、家族や人間関係がズタズタにされたのだ。それは、17地域だけではなく、日本全国に散らばる51の地域で、起きたことなのである。

その後、福島の現状、子どもの甲状腺癌、被災労働者の問題、原発がなくても日本の電力が充分足りている現況等を丁寧に説明してくれて、3.11以後に行われた必要のなかった計画停電を「脅し」ときっぱりと言い切った。

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本当にあの計画停電は許されない。テレビで生活感のない芸能人が、「たかだか数時間だから我慢しましょうよ」と言っていたことが腹立たしかった。夜の6~7時頃に数時間電気が使えない日は、居酒屋にとって、その日の営業が出来ないことに等しいからだ。

長田氏は、話の締めくくりに、親鸞聖人の生涯を絵で表現した「御絵伝」(ごえでん)を紹介された。そこには親鸞聖人が、猿回し(非人)、遊女、手足のない人たちと同じ空間、同じ時代に生きて行く姿が描かれ、長田氏自身が目指したい姿であると語った。

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二日後の11月17日(火)の神奈川新聞にその日のことが掲載された。藤堂織慧さんの「『寺』という概念を超え、地域の皆さんとつながり、同じ一人の人間として開放していこうという気持ちが強い」という言葉は、百年の杜のような小さな居酒屋の役割とも共通するなあ、と同感した。

最後に、この会を企画された藤堂啓住職と藤堂織慧さんに深く感謝申し上げます。

なお、この研修会は全3回開かれ、以下、今後の予定を記させていただきます。

<第2回>
2016年3月 5日(土)
武藤類子氏 福島原発告訴団団長

<第3回>
2016年5月21日(土)
ナターシャ・グジー氏 チェルノブイリ出身 歌手・バンドーラ奏者

<お問い合わせ先>
真宗大谷派 最光寺 
〒239-0841 横須賀市野比3-9-5 
TEL:046-848-1010

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おまけ。講演会終了後は、一緒に参加した日蓮宗『等覚寺』の井上住職(左)と藤堂さんの息子さんが営む野比の『唯』に軽く飲みに行きました(^_^;)

群馬県上野村のイノブタ君

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お久しぶりのブログ♪

わたくし店主は、アジア農民交流センター(AFEC)というグループの事務局を担っている。その恩恵で日本全国からの逸品をお店でご提供することが出来ている。

11月8-9日と、そのAFECの年次寄り合いを群馬県上野村で開催した。初日は、世界遺産富岡製糸場を見学した後に、上野村に向かった。夕刻に宿泊先の民宿旅館不二野屋に着き、寄り合い(総会)を開催。夜はもちろん懇親会!イノブタや熊、鹿を酒肴に飲み、参加者21人全員の声を聞き、大いに盛り上がった。

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二日目は、元教育長の西澤晃氏の話を聞いた後に、国指定重要文化財の旧黒澤家や間伐材を有効利用したペレット工場等を民宿旅館不二野屋の社長に案内してもらった。

ここ上野村は山深く、その96%が森林で、田んぼもない。しかし、合併もせず、自助自立し、人口の一割に相当する230人のIターン者を受け入れている不思議な空間だった。

村ぐるみで、定住支援制度(http://www.vill.ueno.gunma.jp/ui_turn/)、人材育成、観光政策、地域資源の有効利用等に力を入れて、地域の豊かさを創っている。

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普段、百年の杜では、海外にたくさんの飼料を依存している等の理由から、合鴨以外のお肉はメニューにないが、受け入れてくれた上野村への感謝の気持ちを込め、イノブタ肉と椎茸を仕入れて1週間ほどお客さんに提供させていただいた。非常に好評だったので、最後にその簡単レシピを公開!

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『イノブタの野菜炒め』
フライパンを温め、米サラダ油をしき、イノブタ肉を入れて火を通して、人参、もやし、小松菜等の野菜を加えて炒め、生活クラブの調味料「牡蠣味」と醤油と胡椒だけで味付けして完成。

『イノブタ豆腐』
柳川鍋に、出汁(昆布とカツオ節の出汁、ヤマキ醤油、味の母を8:1:1で合わせる)をはり、そこに宮城屋の豆腐、ながしま農園のネギ、上野村椎茸を入れて煮て、最後にイノブタを入れ、そこに山形県長井市の菅野農園の玉子を丸のまま落とし、30秒ぐらい蓋を閉じて出来上がり。

『イノブタの小鍋』
昆布とカツオ節の出汁に豆腐や上野村椎茸、キノコ、ネギ等を入れて温め、十石味噌とほんの少しの醤油を入れ、味を整え、最後にイノブタを入れて少し火を通したら完成!

『椎茸とシラスのチーズ焼き』
椎茸に十石味噌とほんの少しの醤油で味付け、長井かねしち丸の釜揚げシラス、その上にチーズをのせて、グリラーで焼き上げて完成!

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小さな者が社会をひっくり返す

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数回前のこのブログ(http://100nomori.at.webry.info/201405/article_2.html)でご紹介したタイから来日したサナン・チュサクンさん。3ヶ月間滞在し、7月25日に無事帰国した。

サナンさんは、社会活動家で、文筆家でもあるので、この間たくさんの記録を綴っていた。その全てを報告することは出来ないが、23日に横浜からリムジンバスで成田に向かう前に近くの飲食店で交流した内容をお伝えする。

今回サナンさんは、日本財団 アジア・フェローシップ(APIフェローシップ)から研究予算を得て、来日前にはインドネシアとフィリピンにも各3ヶ月滞在した。

「インドネシアでは色々な地域を歩くことができたが、各地域のことを深く掘り下げることは出来なかった。フィリピンでもネットワーク不足から消化仕切れない事が多々あったが、それでも貴重な体験を得ることが出来た」

その2カ国を訪問した後の日本。

「6ヶ月滞在予定が3ヶ月と短くなったが、非常に充実し、その内容の濃さは語りきれない。アジア農民交流センター(AFEC)や日本国際ボランティアセンター(JVC)が持つネットワークのおかげだよ」

とその喜びを表現し、話は語学のことに変わった。

「私は語学を学ぶことが大好きで、周辺国で使われているクメール語やラオス語にとても関心を持っている。高校時代は英語の勉強が大好きだったよ。しかし、ベトナム戦争等の影響で、反米意識が高まり、タマサート大学に入学してからは、英語の勉強を自ら拒んでしまったんだよ。今思えばもったいないことだったよね。今回の来日でも少しでも日本語を学べることが出来ることを期待していたんだ。しかし、半年間の滞在予定が3ヶ月に短くなってしまったこと、どこへ行ってもタイ語の出来る仲間たちに出会えたので、日本語を勉強することは諦めたよ(笑)」

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「3ヶ月間滞在して、日本の各地域を訪問した感想を一言でまとめると?」

「もちろん一言では語り尽くせないけど、あらためて、『小さな者が社会をひっくり返す』ということを感じたよ」

話を続けた。

「1997年にアジアの通貨危機が起こったが、そのときに外部に依存する国家間の経済が崩壊し、小さな内発的な経済の必要性を感じた。今回訪問することが出来た日本各地で取り組まれていた小さな活動、小さな希望はまさにそこに一致する。環境を破壊しない持続可能な農業。市民一人一人が交渉力、決定権を持って生きていける社会創りを垣間見ることができた」

「具体的にはどんな活動でしたか?」

「農村地域では、主に3つのタイプの活動を見ることができたよ。1つ目は、高齢者が多い日本の地域社会の中で、共同組合や相互扶助の取り組みは興味深かった。2つ目としては、その組織を市民主体のオルタナティブな会社にする活動をみた。そして3つ目は、新しい世代による小農民のオルタナティブ。地域の環境を活かした農業をしっかりとした信念を持って営む姿には感動したよ」

「どれも大事な活動かと思いますが、この3つの中で、欠かすことが出来ない活動を選ぶことが出来ますか?」

「やはり小規模な農業。そこから『小さな者が社会をひっくり返す』希望が生まれると思うよ」

もう少し聞きたいところだったが既に時間は過ぎてしまった。予定より15分遅い13:15のリムジンバスに乗車して、サナンさんは成田へと向かった。

7月25日。成田空港建設に立ち向かいながら、持続可能な地域社会創りに取り組む『実験村』の仲間たちとの交流を終え、出発手続きを終えたサナンさんとFBの電話で連絡を取った。

『実験村』と交流した内容を加え、23日の話しの続きをしてくれた。

「3つの活動は、『市民皆農』の考えのもとで、まちの人ともつながっていることが重要だと思う。山形県長井市の『レインボープラン(生ゴミ堆肥化事業)』が説明してくれたように、農民が同じ仲間だけではなく、他の層ともつながっていく。レインボープランや成田市のワンパック(生産者と消費者をつなぐ産直活動)の活動はそれを明確に表していた」

7月21日の百年の杜でのサナンさん送別会では、来年の8月にタイにサナンに会いに行こう!と話に花が咲いた。いずれにしても、小さな者と小さな者とが大きな枠を超えて越境する活動を今後も続けて行きたいと思う。

原伸行さんの遺志を少しでも百年の杜で

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突然の訃報。以前、このブログの-『海農食酒のら屋』に『竹鶴酒造』-でご紹介した広島の原伸行さんが、2014年7月8日の早朝にガンで亡くなられた。

そのブログに書いた文章と重なる箇所もあるが、原さんをもう一度ご紹介させていただく。

藤澤宜史さんから、その訃報のメールが届いた。藤澤さんは、横須賀の方だが、広島に転勤し、偶然にも原さんが経営していた飲食店『海農食酒 のら屋』を訪れ、横須賀に住んでいるなら、是非、百年の杜へ、と原さんが僕を紹介してくれたのだ。1、2年前に藤澤さんが横須賀に帰省された時に、二度ほどが百年の杜にご来店され、そのときにメールアドレスをお伝えしていた。
とてもショックだ。

昨年、僕の友人が広島を訪ねるというので、是非、原さんに会ってもらいたいと思い、連絡したときには、腸が破裂寸前で入院したということだった。『のら屋』のある建物が古くなり、立ち退きを迫られていたので、新しい場所を探そうとしていたその矢先の出来事だったようだ。長電話をして、「回復したら、こちらから電話をするからもうしばらく待っていてくれ」ということだったが、それが原さんとの最後の会話になってしまった。

僕が日本国際ボランティアセンター(JVC)で働いていた当時、一緒に働いていた自然農業のスペシャリスト村上慎平さんが、将来居酒屋をやりたいのだったら、広島に原さんという面白い人がいるよ、と紹介してくれたのだ。

1997年、JVCの講演会で岡山に行ったときに、広島まで足をのばして、初めて原さんにお会いした。以来、九州方面に行く時は、必ず広島に立ち寄ってお酒を飲み交わした。タイやフィリピンの仲間たちを連れて、交流させてもらったことも多々ある。写真は、2002年の夏に、タイの『スースーバンド』と広島を訪れたときに撮ったものだ。

原さんは長崎で生まれ、広島で育った。自分の誕生日は2回あると言う。父親は長崎で被爆し、そのときに妻と子どもは亡くなった。そしてその後に父親は再婚。その新しい妻との間の子として生まれたのが原さん。8月9日の出来事がなかったら、原さんはこの世に生を受けていなかったのだ。8月9日がもう一つの誕生日。

学生運動が盛んだった頃、原さんは、先日サナンさんと歩いたばかりの横浜の寿町で、日雇い労働者として働いていた。そこで働く仲間たちが農村出身であるにも関わらず、「百姓」という言葉を軽視していたことに疑問を抱き、農の世界へと関心を移した。その後、基盤のある広島に戻り、『海農食酒 のら屋』、そして有機農産物や自然食品を販売する『百姓や会』を開き、むらとまちの人々を結びつける活動を続け、身土不二をテーマに太田川流域の環境問題の活動にも携わっていた。

2002年12月にタイの仲間たちと訪問したときは、そのタイの仲間たちにこんなメッセージを送った。

「平和記念公園のあるこの町はけっして平和の象徴ではない。市の中心にある紙屋町の交差点から横断歩道が消え、町はコンクリートで固められている。この土のない町にけっして平和はないと。20世紀は機械と火による開発が続いた。21世紀は、火を水に変え、機械を命に変える必要があるという。そして命の根本は食、食は農から。土を守る有機農業を中心としたあらたな社会をここ広島でもつくっていく必要がある」

残念ながら、広島へは足を運べない。

僕は居酒屋を経営している。できることと言えば、原さんが『海農食酒 のら屋』でやり残した遺志を少しでも継いで行くことだ。

百年の杜から心よりご冥福をお祈りいたします。

2014年7月9日 松尾康範



サナンさんと横浜の寿町へ

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2014年7月1日、サナンさんと一緒に横浜市寿町を歩き、タイの仲間が来るとよくお世話になる寿支援者交流会事務局長の高沢幸男さんを訪ねた。神奈川新聞の熊谷和夫さんも駆けつけてくれた。

寿支援者交流会は1993年に設立されて以来、路上生活者や寿町に住む人々と社会を結ぶ役割を担っている。高沢さんは学生時代からこの活動に携わっている。

寿町の歴史や路上生活者の現状やその活動内容について伺った。

東京の山谷、大阪の釜ヶ崎と並び、日本三大寄せ場のひとつ寿町。約120軒の簡易宿泊所が立ち並ぶ。寿町のあるこの地域は江戸時代に開墾された吉田新田の跡地で、周囲にも縁起のいい名前が付けられた町が多い。その歴史の浅さからだろう、寿町は第二次世界大戦後、米国軍によって接収され、1955年に日本に返還されるまで、空白の時間がつくられた。

その後、治安の悪い場所として知られていくが、1957年に職業安定所が寿町に移転されたことで、港湾労働者が多く住むドヤ街の町として形成されて行った。

1960年代の高度経済成長で農村部から都市部へと人が流れ、「石炭から石油へ」というエネルギー改革のなか、炭鉱労働者たちも都会へと流れた。労働者の家族崩壊がはじまる。寿にも単身赴任の人が多く住むようになる。

何度か高沢さんのお話を聞く機会があったが、興味深いのはここからだ。

「普通の人が思う野宿生活者は、段階として日雇い労働者からの転換が大部分だと思うが、実は違う」

1992年にバブルが崩壊した。そうした時に政府がとる景気対策は、短絡的にインフラ事業に力を注ぎがちだ。そのため、景気が悪くなっても日雇い労働者の行き先が極端に減るわけではないという。

1997年7月のタイバーツの下落をきっかけにアジアの通貨危機が起こった。日本へも影響は終身雇用制の崩壊という形であらわれ、リストラの嵐がやってきた。98年に日本全国の野宿生活者の数は倍増した。これまで企業に忠誠心を持って、スーツを着て生きてきた人が、いきなり野宿生活者に身を転じることになるのだ。高沢さんが配布してくれた資料がそれを立証している。野宿生活前の職業をみると4割以上が常勤職員で、年齢層をみると50歳~64歳の年金をもらえる前の役職を持っている層であることがわかる。
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高沢さんは、日本型セーフティネットは、公的なものではなく、企業の終身雇用制や福利厚生、血縁などによるものだったことを強調する。

都市と農村の問題が、同時並行して起こっていること、地球規模の北と南の国の問題は、都市と農村の問題であること、そして、やはり最後に個々が必要になってくるものは、生きる力と想像力である、ということをあらためて実感させられた交流だった。

ちなみに、日雇い労働者や野宿生活者の中には、生きる力と想像力を持った方たちはいっぱいいます。僕は二十歳の頃、友人と寝ずに飲み歩いていて、そんな方たちとの出会いの中で、その頃からそう感じていました(^_^;)。

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快医学の我妻さんとの出会い、そして禁酒とソフト断食

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数年前から自分の身体が歪んでいることに気づいていた。ちょっと身体を痛めつけ過ぎてしまっている。

そんなとき、快医学の我妻啓光さんがご来店された(5月22日)。我妻さんとは20年前の1994年8月にタイで出会った。快医学をお土産としてタイの伝統医学に関わる方たちと交流し、僕が滞在していた東北タイにもよくやってきた。

快医学とは、身体の歪みを治す操体法や内蔵を温めて内臓機能を活性化させる温熱法、食事療法や薬草茶による治療など、様々な伝統医療を統合して形作られている。無理をせず、快い方向に向かっていく生き方。しかし、あまりにも自分だけが心地のいいことばかりをしているとその警告が身体に歪みとなってあらわれる、といった感じか。

我妻さんは言う。

「快医学は息・食・動・想・環を大切にして、バランスをとること。そして、いのちを医者に委ねるのではなくて、自分たちの手に取り戻すことに意義がある」と。

東北タイの農村での巡回診療に幾度となく、同行させてもらったが、我妻さんはそうした医学をすすめておきながら、タバコも酒も飲み、肩肘をはらないで快医学を伝えていた。そのよき人柄も加わり、タイの人たちからも好かれ、僕も快医学に興味を持ったように、村の人たちも快医学の面白さに魅せられていた。

診療の中で、特にライフエネルギーテスト(LET)には驚いた。近代的な器具を全く使わず、患者の病名をチェックすることができ、それにはどんな薬草が合うか等、単時間でその治療法までも知ることが出来るからだ。

飲みに来ていただいた我妻さんに、図々しく20年ぶりにLETで僕の身体をチェックしてもらった。そしてその結果を受け、数日後から毎日、よもぎ、びわの葉、蛇舌草を煎じた薬草者を飲みはじめた。内蔵を温める温熱法も試みている。お酒は引き続き、いつもよりは少なめ、普通の人よりは多めの量を飲んでいた。しかし、まだまだそれでは中途半端であることに気付かされ、思い切って2週間の禁酒とソフト断食を実行することにした。

禁酒初日の7月3日には、これはいい機会だと思い、いきなり人生初の断食(薬草茶のみ飲用)を試みてみた。次の日はお粥食、そして昨日からはソフト断食に切り替えた。五分づきのご飯にアワ・ヒエ・キビ、押し麦をまぜ、ゴマ塩と梅干のみの少量のご飯を1日3食。そのうち1食だけ昆布だしの味噌汁を飲んでいい、とアドバイスを受けた。

そんなに難しいことではない。薬草も五分づきのご飯も美味い。断食もソフト断食も、大人になってから2週間お酒を口にしないことも初めての経験なので、身体がどれだけいい方向に向かっていくか、ワクワクしている。2週間お酒を飲めないのは正直辛いが、お酒を雑に飲みすぎていたので、お酒の神様からのお叱りが来たと思うしかない。

後には、美味しいお酒が待っている。

お客様、この間、僕にお酒をすすめても絶対に飲みませぬぞ。

サナン・チュサクン

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東北タイからサナン・チュサクンさん(นายสนั่น ชูสกุล/54)が来日し、百年の杜のお客さんとも仲良く楽しんでいる。5月1日から7月末までの3ヶ月間、日本各地の農村を回っている。

サナンさんとの初めての出会いは2000年。僕が日本国際ボランティアセンター(JVC)というNGOで「地場の市場づくり」プロジェクトの責任者として東北タイに滞在していたときのことだ。彼の住むスリン県の仲間たちに、このブログでも度々登場する、山形県長井市の生ゴミ堆肥化プロジェクト「レインボープラン」のお話をしてくれないか、という依頼があり、スライドを持ってスリン県に足を運んだときのことだ。

2003年、レインボープランの提唱者で、僕も事務局として関わっているアジア農民交流センター(AFEC)の共同代表・菅野芳秀著、『生ゴミはよみがえる』(講談社)をタイ語に翻訳することになった。僕が、この本をタイ語で読み上げ、同じく東北タイの知人、サネー・ウィチャイウォンさんが、それを書き留めていくという手法で、短期間で翻訳本として仕上げた。この本の内容に共鳴したサナンさんは、本の後書きにもメッセージを綴ってくれた。思えばもう10年以上も前のことだ。

それ以来、彼は長井市をはじめとした日本の農村地域を訪問することを望んでいた。そして今回、日本財団 アジア・フェローシップ(APIフェローシップ)から研究予算を得ることができ、来日が実現、AFECが受け入れ先を引き受けたのだ。
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         茨城県八郷の岩崎邸にて交流(2014年5月18日)

さて、そのサナンさんの生い立ちは興味深い。

1959年12月7日、タイ南部のナコンシータマラート県ターサーラー郡に生まれる。両親は、椰子農園を営んでいた。8人兄弟の5番目の子として生まれ、他の兄弟は全て女の子だったため、お母さんにとても可愛がられて育てられたようだ。また、10歳年上のお姉さんが学校の先生だった影響で、幼少時分から勉学に関心を持った。

当時、小学校は7年間、中学校は3年間、高校は2年間だった。彼が中学校1年のときに10月14日の政変が起きる。1963年から続くタノーム首相、プラパート副首相の軍事独裁政権への不満は、民主化運動となってあらわれた。

73年10月14日、民主化の舞台となったバンコクのラーチャダムヌン通りでは、政府と市民が衝突、政府軍による無差別の銃弾によって何十人もの市民が命を落とすことになった。しかし、その後タノーム、プラパートは国外に逃亡し、民主化運動側の勝利に終わった。

翌年、タイ南部で大洪水が起きた。その洪水対策を全く講じない県知事に対して、市民は怒りのデモを開き、担任の中学校の先生が先頭に立って、サナンさんたち生徒をデモに引き連れて行ってくれたことは、中学時代の良き思い出だと語る。そんな影響から政治に関心を抱き、なんとこの時分からタイの名門タマサート大学の政治学部に行くことを決めていたようだ。

この頃、タイの周辺国は次々に共産化し、タイ政府は、タイの政治が同じ道に向かっていくことを懸念し、1976年10月6日、血の水曜日流血事件が起きることになる。右派勢力の軍隊が発砲し、市民数百人が撃たれた。そして、難を逃れた活動家たちの一部が森を拠点とするコミュニストと合流した。サナンさんの知人の多くも森に入った。

1977年に念願のタマサート大学政治学部に入学し、大学2年生の時には、政治学部の環境・自然保護サークルの委員長を勤めるなど、活発的に社会活動に関わった。

タマサート大学の政治学部を卒業した人のほとんどは、官僚や政治家を目指す。彼の同級生で、県知事になっている人も何人かいるようだ。両親も公務員になってもらうことを望んだが、彼はその道を選ばなかった。卒業後、タイ・ワッタナーパーニットという大手出版社の編集局(社会教育部門)に勤務したが、1年で退社して、大学で知り合った彼女の出身地であるイサーン(東北タイ)でNGO(非営利組織)の活動に携わった。

以後、イサーンを中心に、地域開発や農民運動、アドボカシー(社会啓発)活動に関わってきた。現在も貧民連合といったタイ全土の市民ネットワークやメコン川の河川流域の自然保護や地域住民の漁業補償問題に関わる団体等で相談役を務める。また、機関紙や雑誌の編集者としても卓抜した能力を発揮し、社会派のコラムニストとしても知られる。

何冊もの著書を持つ中、『統治者』(マティチョン/1998)『あと一つの曲がり角で到着』(ドックピィウパー/2002)という小説も描いている。

2008年には、東南アジア諸国連合(ASEAN)の各国が選出した作家に授与される東南アジア文学賞(S.E.A Write Award)の最終選考まで彼の作品『タイ無限会社』(マティチョン/2007)が残った。

秀逸した感性とカリスマ性を持つサナンさん。南部出身だがイサーンの人々の声となり、仲間たちから親しまれている。

サナンさんが帰国する7月末までは忙しい日々が続くが、彼から沢山のことを学びたいと思っている。

百年の杜でサナンさんを見かけたときは是非声をかけて下さい。ご一緒に交流しましょう!

ちょっと味のある飲み会

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一ヶ月前のある日、お店に電話が鳴った。「ながしま農園」の長島勝美さんからだ。

「これからお店に、生きた烏骨鶏を持っていきますので使って下さい!」と。

2年前にもそんなことがあった。そのときには、「命をいただく会」と称して、仲間を誘って、烏骨鶏を屠殺して料理を作って宴会をした。

またやるか!

ちょうど僕の第二の故郷?東北タイからサナン・チュサクンさんという知人が日本にやって来る。その来日に合わせ、百年の杜のご常連も誘って、「ちょっと味のある飲み会」をながしま農園にて開催することになった。2014年5月4日のことだ。

サナンさんは、東北タイの地域づくりや農民運動に携わり、社会派のコラムニストとして知られる著名な方なので、彼の紹介に関しては、また後日あらためてしたいと思う。
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さて、その飲み会の参加条件は、烏骨鶏を一緒にさばくということ。

11:00に集合して、宴会場となる場所のセッティング、そしてまずは乾杯!簡単に一日の段取りを説明した後に鶏小屋へと向かった。

生きている烏骨鶏を捕まえる作業を始めてからは、みんなのお酒を飲む手が止まった。そして嬉しいことに全員が、屠殺に参加してくれたのだ。

2時間以上かかっただろうか。先ほどまで生きていた5羽の烏骨鶏は、僕たちの食べ物に変わった。サナンさんが住む東北タイの農村では日常的なこと。同じように、屠殺した時に流れる血も捨てずに、トムヤムスープの中に加えて、その命をいただいた。
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色々な思いを感じた各自は、その後は、ひたすら酔って楽しんだ。

サナンさんは書きとめた。

「普段食べている鶏は、どこから来たのか分からない。普段鶏を食べている人は、鶏を殺したいとは思わない…。今回、この会に参加した彼らにとって、とても大事な休日となったことだろう」

そして、続けた。

「いまの時代、我々は、選択する余地がなく、目の前に売られた食べ物を食している。一方、大規模ファームの鶏は不健康にどこから来たのか分からないエサを食べ、無理やり大きくされ生かされている。でも、よく考えると我々人間も一緒だね」

スーパーや居酒屋で売られている外国産の鶏の唐揚げ。鶏たちは羽を広げることも出来ずに育てられ、商品となって日本に飛んでくる。

目の前の鶏をさばいて食べることが残酷か?どこから来たのかも分からない鶏を食べることが残酷か?ただ単に美味しい食べ物を美味しいと言って食べたいものだが、考えて食さなければならない時代になっている。

また機会があったら「ちょっと味のある飲み会」を開催したい。

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二重海苔の太巻き

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流行。そのほとんどが流行っているのではなく、企業のコマーシャル等によって流行らされている。恵方巻きもその一つ。セブンイレブンが使い始めた言葉のようだ。

流行りに乗るのは嫌いだが、太巻きは僕にとっての青春。寝るのを惜しんで遊んでばかりいた学生時代だが、とにかくよく働いた。お寿司屋さんで働いていたのだが、定休日の月曜日以外はほとんど休まなかった。忙しい日は、細巻きだけで200~300本は巻いた。

毎年2月3日には、そんな学生時代を思い出し、お店のウリだった二重海苔の太巻きを「お通し」でお客様にご提供している。香り漂う走水の海苔を使った豪勢な太巻きだ。

具の味付けや酢飯の塩梅に関しては省略するが、ゆっくりと作るのであれば、その巻き方は、そんなに難しいものではない。

まず海苔を一帖まな板におき、その上に酢飯を薄くかぶせていく。

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それを裏返したところに具材を並べる。薄焼き玉子からだ。そして本来なら胡瓜は定番であるが、胡瓜は夏の野菜なので、代わりに湯通ししたニンジン。味を含めたシイタケや干瓢に、小松菜を載せ、地元のシラスもその特色として加えた。

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これを手前からぐるぐる巻いていく。ここがちょっとだけ難しい。きっちりと引き締めて巻いていく必要がある。

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そして仕上げにもう一帖の海苔を中身の手前に敷き、弛まないように中身をしっかり押さえながら、手前(海苔の上)に転がしていく。巻き簀を使うのは、最後に形を整えるだけなので、下手をすれば、細巻きよりも簡単かも。

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節分は終わった。でも本来太巻きは節分だけのものではない。コンビニやスーパーの戦略に巻かれるのではなく?手前にある色々な具材で、自分自身のオリジナルの太巻きを作ってみてはいかがでしょうか。次はひな祭りの日にでも。

○『賄いメニュー』コンテストに参加

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以前このブログで、『2回のまかない』http://100nomori.at.webry.info/201308/article_1.htmlという記事を綴った。バイト君には、当店の狭い厨房の片隅で賄いを食べてもらう。バイト終了後には、お酒も飲ましてあげるので、2回のまかないというタイトルにした。

さて、その“賄い”をテーマに横須賀商工会議所が面白い企画を始めた。その名もあなたが選ぶ『賄いメニュー』コンテスト!当店も参加させてもらうことになった。横須賀市内の20店舗が参加し、全てワンコイン500円でその料理を提供する。お気に入りのメニューを見つけたら、ハガキ、FAX、メールで投票する仕組みだ。投票者の中から、抽選で豪華賞品もあたるというとても魅力的なイベントだ。

実施期間は、2月1日(土)~28日(金)

当店は『ワカメと大根の揚げ出しうどん』をご提供。通常賄いは、中途半端に残りそうな魚の塩焼きやお刺身、お客様に料理を提供するときに余分に作った料理などを食べてもらうが、今回は、この時期人気の『ワカメの天ぷら』と『大根の揚げ出し』をトッピングした温かいうどんを考案した。人気のメニューを同時に食べる事ができ、温かいうどんでお腹いっぱいにもなるというとてもお得なメニューだ。

ただ、当店はうどん屋さんではないので、お湯を沸騰させることから始めなければならないため、一度にご注文された場合はお時間をいただくことになる。

横須賀が盛り上がるとても面白い企画なので、この機会に行ったことのない色々なお店に足を運ぶチャンスでもある。

投票先も記入しておきますね!

〒238-0032 横須賀市平作1-12-8
(株)タウンニュース社横須賀支社「賄いメニュー」コンテスト係
FAX:046-850-1281
E-mail:yokosuka@townnews.co.jp
<記入事項>
店舗名/NO.1に選んだ理由/投票店への応援メッセージ/住所/氏名/年齢/連絡先/希望賞品
*3月3日(月)締切必着


ご常連と小松ヶ池へ

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3時にお店を開けているが、その早い時間帯のご常連の土棚毅さん。73歳だがいたって元気。とは言っても奥様はとうの昔に先立たれ、最近、飼っていた猫が亡くなってしまったので、少し寂しそうだったのが気がかりだった。

辛口にお店を評価してくれても、なんだかんだで、お店に好意を持ってくれて、家族ぐるみでお付き合いをさせてもらっている。

土棚さんは、故・森繁久彌さんの息子さんと同級生で、一緒に佐島マリーナを立ち上げた方だ。息子さんよりも風貌が森繁さんそっくりだったようで、よく息子さんに間違えられた頃の昔話を聞くのは面白い。

そんな土棚さんと、うちの家族と一緒に、三浦海岸の小松ヶ池に散歩に行くことになった。遠方から来ていただく知り合いに、お店周辺の観光スポットでいいところありますか?と聞かれると、大抵、海の観光地をお勧めしてしまうが、ここも一押しの隠れた穴場だ。

小松ヶ池の名前の由来が池の脇の看板に書かれている。

その昔、働き者のお松が、意地悪な姑に、一人ではとても無理な田植えを言いつけられ、無事に田植えを終えることが出来たが、そのとき、あたり一面は泥沼と変わり、お松が水に呑まれてしまった…。それからというもの、雨の多い日が続いてこの池が形成されたという昔話。

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「釣りキチ三平」にでも出てきそうな神秘的なこの池に来ると童心に還る。多種の生き物も生息しているので、河童でも出てこないかと期待感もわく。河童はいないがカワセミの巣があることで知られる。そして運が良く、そのカワセミを間近で見ることが出来たから感激だ。三浦海岸が町おこしですすめている河津桜もポツリポツリと咲きはじめ、とてもいい気分を味わえた。

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とは言っても花より団子。ならぬ酒。もともと土棚さんが、日曜日にたまに行かれている三浦海岸の昼から開いている居酒屋に一緒に行こうか、というのがこの日のいきさつ。

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子どもを連れているというのに大衆酒場で昼から酔った。

昨日はそんな休日でした…。

年齢のこと

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よくお客様に、このお店のお客さんは何歳ぐらいの方が多いのですか?と聞かれる。

ということで年齢のこと。

先日、尊敬する農業ジャーナリストの大野和興さんが、フェイスブックにこうつぶやいていた。「都知事選の政治論議はさておいて、細川候補に対し、細川老とか年取り過ぎと批判する言説が目立つが、これは年寄り差別と思う。『女のくせに』とかいうのと同じ次元…」

全くその通りだと思う。

僕が以前に東北タイで関わっていた地場の市場づくりの意義の一つは、近くに村の人たち主体の市場があることで、村に住む多様な層の力が発揮されることにあった。

昔、村の人たちは、長老の話から多くのことを学び、それを次の世代に伝えることで、村の発展に結びつけてきた。しかし、日本と同様に、教育が高学歴になればなるほど、新しいもの、外の事を学ぶことが発展と思われるようになり、村の智慧がないがしろにされて、長老の話にも耳を傾けなくなってしまった。サトウキビの単一栽培等がすすめられると、そのサトウキビを刈りとるのも、運ぶのもある一定の男性層、女性が活躍する機織り等の手工芸品づくりの文化も衰退した。

しかし、近くに市場が出来たことで、農業生産にも多様性が生まれ、子供から高齢者まで、誰もが農業に参加し易くなり、販売や加工品づくりの主役は女性たちとなった。

大野さんのつぶやきは、こう締めくくられる。「自民党は高齢者集団なので、自身に返ってくるからこういういい方はしていない。」

やっぱりバランスですかね。高齢者から若者まで、その層の幅が広がれば、そこには自然と豊かさが生まれる。

おかげさまで百年の杜の客層の幅は広い。20代は比較的少ないが、バイト君たちが20代なので、彼らからの意見を聞くのもまた面白い。

さあ、どんな層のお客様がやってくるのか?また今日も楽しみだ。

置賜百姓交流会の魅力

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アジア農民交流センター(AFEC)の年次寄り合い前日の9月21日、百年の杜に福岡県久留米市から内藤信哉さんがご来店され、次の日一緒に山形に向かった。内藤さんと初めて出会ったのは1995年。僕が日本国際ボランティアセンター(JVC)のボランティアとして、東北タイに1年間滞在していた時のことだ。その頃、内藤さんは久留米の公民館でボランティア育成講座を企画し、その一環でタイに講座の生徒さんたちを連れてやって来られたのがその年の2月のことだ。1週間ほど彼らと過ごしたひとときは今でも忘れられない。その後、何度もそうしたツアーのコーディネートを行うきっかけにもなった。

同じ年の95年6月には、農業ジャーナリストの大野和興さんが、日本ネグロス・キャンペーン委員会(現APLA)の活動地であるフィリピンのネグロス島の地域リーダーたちを連れて、僕が滞在していた東北タイのブリラムにやって来た。その大野さんとの出会いがきっかけで、アジア農民交流センター(AFEC)の活動に関わることができたのだ。

その頃、世界の市場化が急激に加速されていた。GATT(関税と貿易に関する一般協定)はWTO(世界貿易機構)に改組され、95年11月には、大阪でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が開催され、その会議にあわせて、市民フォーラム2001等のNGOが中心となり、東京で市民集会が開かれた。そこに東北タイが誇る農民リーダー、バムルン・カヨターさん(ヨーさん)が招聘されたのだ。

会議終了後、僕はヨーさんと一緒に山形県置賜に向かい、置賜百姓交流会の魅力ある面々と出会うことができた。


「川崎こめ農家」に関して綴った時にもご紹介させていただいたが、置賜百姓交流会は、減反反対運動をきっかけに1978年に発足した団体で、メンバーはそれぞれの地域のリーダー格で、議員や町長になっている方もいる。

彼らは、自分たちだけが豊かになるだけの運動では運動の発展はありえない、とフィリピンや台湾、タイの農村に関する勉強会を開催し、実際にメンバーが現地を訪れたりもした。そしてその流れはAFEC設立にも結びついた。

おコメは山形県小国町の川崎さんから、平飼い玉子は、AFEC共同代表の菅野さん(長井市)から、ラ・フランスジュースやリンゴジュースは長井市から、 「住吉」(川西町)や「甦る」(長井市)といった日本酒など、百年の杜に山形県からの恵みが多いのは、こうした出会いのおかげである。

今回ヨーさんは、栃木県にある「アジア学院」の40周年記念式典に招聘され、ヨーさんと同じく、アジア学院卒業生であり、女性活動家のジェンウェンさんに関しては、AFECもカンパを集め、一緒に来日した。そして二人の希望もあって置賜を訪問、その置賜での交流会にAFECの年次寄り合いを重ねることとなったのだ。

22日午後からの会議では、ヨーさんたちが見学してきた福島県三春町の話や原発のこと、TPPの問題やタイを含めたアジアのグローバル化の話などで盛り上がった。参加者一人一人の意見が力強く感じだのは、皆それぞれ、大きな流れを批判するだけではなく、代案となるしっかりとした活動を持っている方たちだったからだ。

僕からは事務局からの報告をさせていただいたが、通訳が主な仕事だったため、参加者一人一人との交流に関しては物足りないところもあった。しかし、6年ぶりに訪れた置賜は、やはり活気のある地域で、そこに魅力ある方たちが集まっていた。18年間の色々な思い出が蘇ってきた。

というようなことで、百年の杜の心の中には、いつも置賜百姓交流会、そしてアジア農民交流センター(AFEC)の仲間がいる。

(写真は、会議終了後の23日に山形県長井市を訪問した時の様子)

山形県長井市の“虹の戦士”たち

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9月22-23日、アジア農民交流センター(AFEC)の年次寄り合いが山形県で開催された。AFECには事務局として関わり、僕自身にとっても大切な拠所だ。

22日11:12分、予定通りフラワー長井線の長井駅に降り立った。店をはじめてから一度も来ることが出来なかったため、6年ぶりの長井市。込み上げてくるもがあった。1年半前に一緒にタイに出かけた長井の方々がその旅の参加者を集め、年次寄り合いの前に昼食会を企画してくれたのだ。駅から直ぐ近くの会場へと向かい、内谷市長を始め、懐かしの顔ぶれに再会することが出来た。

その交流メンバーに、タイツアーには参加していないが、村田孝さんの姿が見られた。3.11後に福島県いわき市から長井に避難されて来られた方だ。

何度かこのブログにもご紹介させていただいているが、ここ長井市では、まちぐるみで、生ゴミの堆肥化事業「レインボープラン」が取り組まれ、循環型の地域づくりに取り組むまちとして全国から注目されている。そのレインボープランの活動の一環で、NPO法人レインボープラン市民農場が生まれ、3.11後、その農場のリーダーたちが動き、被災地からの方たちが中心となる「福幸ファーム」の活動が始まった。ちなみに福島から長井に避難された方々は、震災当時は300名以上、現在でも190名以上の方々が長井に住んでいるという。「福幸ファーム」の田んぼでは、在来米の「さわのはな」を栽培し、同じく福島県浪江町から移転した鈴木酒造店と共に「復興支援酒」を造っている。村田さんは、その活動のリーダーとしてご活躍されているのだ。

村田さんのお話はとても興味深かった。

村田さんはチェルノブイルの原発事故がきっかけで、原発問題への関心を高め、1990年、アメリカのアリゾナ州北部を中心とした地に住む「ホピ」というネイティブ・アメリカンが描いた「ロードプラン」という岩絵を見るためにアメリカを訪れた。広島、長崎に投下された原爆の燃料となるウランが発掘された地としても知られている。

以下、日々の新聞(福島県いわき市の地方紙)より村田さんの記事を抜粋。

「ホピの言い伝えを無視したアメリカ合衆国政府によって作られ、広島と長崎に落とされることになった灰の詰まったヒョウタン(原子爆弾)を示す二つの輪が確かに岩絵に刻まれていた。そしてこの岩絵を見たもの多くがそうであるように、私もまた『これから起こるであろう過酷な試練』として伝えられる『三番目の輪』に思いを馳せた」
(日々の新聞2013年4月30日)

「ネイティブ・アメリカンの民話には次のようなものがある『地球が病んで動物たちが姿を消しはじめるとき、まさにそのときみんなを救うために虹の戦士たちがあらわれる・・・』」
(日々の新聞2013年9月15日)

村田さんは奇遇にも、命の循環を掲げたまちづくりに取り組む長井市に移り、「循環」、「ともに」、「土はいのちのみなもと」という3つの理念を基としたレインボープランを熱く語り、未来に希望ある社会を残していこうとする「虹の戦士」たちに出会ったのだ。そして村田孝さん自身も虹の戦士の一人として疾走している。

山形県に到着して、まだ数時間も経っていないのに、また新たな勇気と感動をいただき、次の会場へと向かった。

 (写真は、9月22日長井市昼食会場にて。手前右から2番目が村田孝さん。)

ヒャクネンノモリの新しい看板

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百年の杜に新しい看板が加わった。横須賀市追浜の「掛田商店」で働く山口高之さん(38)が、素敵な絵を描写してくれた。

掛田商店を通じて出会った飲食店仲間で構成されている「一滴(ひとしずく)の会」のイベントで、山口さんによって器用に描かれたイラストを見て、うちの看板も描いてくれないかなあ~、なんて気軽に声を掛けたことがきっかけで、この看板作成が実現した。

山口さんは、アジア雑貨のお仕事、奄美での滞在経験、自然食品店で働いた経歴をもち、現在に至る。「自然食品店で働いていた頃は、お酒は陰というイメージが強く、あまりお酒との接点がなかったけれど、掛田商店で働くようになり、その共通点が見えてきた」という。なんてったって、お酒は自然からの授かりものですからね。

山口さんは、特に美術の学校や部活で絵を習っていたという経験があるわけでもなく、幼少時代に横浜で経験した田んぼや山里を囲む暮らしやこれまでの多様な経験から自然が好きになり、それを絵で表現するようになったという。

今回描いてくれた作品には、絵を眺めてくれた人が暖かい気持ちになってくれればいいな、という山口さんの思いが見事に表現されている。

絵の中心となる黄色い花は、ゴールデンシャワー。タイの国樹で、クーンの花と呼ばれ、旧正月を祝うソンクラーン(水かけ祭)がある4月に満開になる。店主である僕がタイに在住していた経験があることを知って、この花を選んでくれたのだ。

「水の恵みと、大地に根を下ろしてしっかりと立つ樹、そして太陽と月は一つになって表と裏を無くします。ここに集う人たちが、自然の営みの中で生かされていることを知り、自然を慈しみ共に生きる世の中でありたいと祈りを込めて」(山口高之)

ちなみにこの看板デザインの謝礼は物々交換。看板を書いてくれた日にしこたま飲んでいってもらった。そう百年の杜のキャッチフレーズは「海・山・里からのおすそわけ」。その日は他のご常連もお魚を持ってきてくれたり、お話によるお客様との交流も盛り上がり、また思い出となる一日が百年の杜に刻まれた。

山口高之さん「ありがとう」

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(看板作成日 2014年8月12日)

2回のまかない

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バイト君が突然消える時間がある。よくお客様に、もう彼は帰ったの、と聞かれることがあるが、それはまかないの時間。一日数時間のアルバイト中のご飯なので、ゆっくり落ち着いて食べる時間はない。お客さんの動きが止まった時を見計らって、奥の小さな、小さな厨房で食べてもらう。お刺身や焼き魚、お客様に料理を提供するときに余分に作った料理等を短時間で、サクサクっと食べてもらう。

そしてまかない第二弾もある。それはお仕事終了後。これはご飯ではなくお酒!お客さんの前でまかないをクチャクチャ食べてもらうわけにはいかないが、お仕事終了後は、カウンターに座られているお客様たちに失礼して、一緒に、カウンターで日本酒や焼酎を飲んでもらう。これは、こちらからのお疲れ様、という感謝の気持ちでもあるが、お酒の味を覚えてもらいたい、そしてカウンターに座ることで、お客様の目線からお店を眺めてもらいたい、という思いがあるからだ。学校の試験中だったりもするので、もちろん強制はしない。バイト君は、仕事が終わったところなので、スマホをチェックしたりもするが、それがあまりにも長く続くと、いい加減にしろ!と怒鳴ってしまうこともある。居酒屋のお客様は多種多様な方面で活躍されている方々。バイト君のほとんどが学生なので、こんなにいい社会勉強の場所はない。この場でお客様といい交流をできる子は必ず社会に出て、自分の能力を発揮できる子だと思う。

お客様に、ここの料理は美味しいね、と言われることはもちろん嬉しいが、この二回のまかないを通じて、バイト君から、「実はお刺身苦手だったのですが、ここでは全て食べることが出来ます」、「トマトがこんなに美味しい物だなんて!」、「この日本酒の酸味がいいですね」なんて言われると、本当に嬉しい。若い時分から、食やお酒の味を感じ取ることが出来ることは大切なことだ。

写真の料理はラタトゥイユ。夏季限定の人気メニューだ。民衆交易に取り組む(株)ATJから仕入れているパレスチナ産のオリーブオイルで、ニンニクを炒めた後に、たっぷりの夏野菜を炒め煮する。味つけは塩と胡椒のみ。夏野菜の旨みが凝縮され実に美味い!これはまかない食には出さないので、先月、2回もお客としてこのラタトゥイユを食べに来たバイトの子がいた。本当に嬉しい限りだ。

お客様、22時を過ぎた頃になりますと、たまにバイト君が席に座っていることがありますので、お相手の方、何卒よろしくお願いします!

タイの田舎で嫁になる!?

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『酒屋の群像』に続いて、流行ではない本をほぼ並行して読んだ。森本薫子著『タイの田舎で嫁になる』(めこん)。とは言っても、いまタイの首都バンコクにある紀伊国屋に行けばこの本は、平積みされているようだ!

百年の杜という居酒屋のブログに何故かたまにタイのお話。何度がご紹介させてもらっているが、店主である僕は、イサーンと呼ばれる東北タイに計5年間滞在したことがある。森本さんは、そのときに一緒に働いていた同志だ。僕はイサーンに未練を残し、以前から計画していた居酒屋経営に向けて悪戦苦闘しているこの10年の間に、森本さんは、イサーンで立派な母となり、土とともにたくましく生きていた。

「村の食生活」、「村の農風景」「村の暮らし」、「村の子育て」と4つのテーマに分かれて構成され、ほぼページと同数のカラー写真がこの本の魅力を引き立てている。雑草のような葉、昆虫、牛の生肉等を食すイサーンの食文化の様子から、イサーンの農の営み、月とともに動くその生活ぶり、年間行事での出来事などが軽快に描かれている。特に「村の子育て」の様子は興味深く、アジアやアフリカ等に全く興味のない方々にも是非読んでもらいたいと思う箇所だ。

引用したいところは沢山あるが、ひとつだけちょっと長めに。

「イサーンの生活は確かに日本人には『不潔』だと思われそうだ。埃のたまった家、濁った水で洗った食器、知らない人とも使いまわしのコップ、最後にいつ洗ったかわからないタオル。でも、そこに繁殖している菌のせいで病気になった人なんて聞いたことがない。『不潔で死ぬ人はいない』って本当だ。『菌』というのはどこでも存在するのだから。少しぐらい菌がいようと、そこらの辺の溜まり水で手を洗ってもち米を握る方が、殺菌剤のついたウエットティッシュで拭いた手で握るよりは安全なのかも、と今では思うほどになった。イサーン人化しすぎ?」

百年の杜の話しになるが、当店におしぼりがない理由もそういうこと。漂白剤をふんだんに使ったおしぼりなんてお客様にご提供出来ないし、純白でないおしぼりをお渡ししても不潔と言われそうなので、いっそうのこと提供しないことに決めた。しかしあまりにも「おしぼり」、「おしぼり」との声が上がるので、妥協して、紙おしぼりをテーブルの脇に添えるようにした次第だ。本音を言えば使って欲しくはない。

森本さんは、マーケティング・リサーチの会社に勤務した経験を持つ。実は、彼女が日本国際ボランティアセンター(JVC)のタイインターン生に応募して来たときに、僕はタイ事業担当として面接官の一人だった。その時に彼女はこんなことを言っていた。新しい商品を作り、その商品が完成したら、またちょっと新しいアイテムを加えて次の新しい商品を作って利益を求める企業のあり方に疑問を感じるようになった、と。まさに不易は度外視されている。

この本は、日本でOLの日常を経験した普通の女性が、たまたまイサーンの方田舎の日常を経験する機会を得て、その生活の中から生まれた言葉を書き綴ったものだ。本来最も必要とされている日常を感じることのできる素敵な本だ。

不易であることの大切さ

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「日本酒じゃぶじゃぶ~酒琉来ロードをたどって~」のちょうど一週間前に、大塚屋主催の石川達也杜氏の「酒造りを通して不易流行を語る」という講演会が東京の吉祥寺で開催された。僕は残念ならが参加することができなかったが、フライヤーに大きく書かれていた「不易流行」という言葉を見て、僕も事務局として関わっているアジア農民交流センター(AFEC)の共同代表でもあり、農民作家の山下惣一さんの著書「身土不二の探求」(創森社)を思い出した。その「はじめに」に、私たちにとって変わりのないのが「吉」、変わるのが「凶」、政治の世界では変革が「善」、変わらないことが「悪」ということが記され、その後にこう綴られている。

「私たちはこのように、変わってはならないものと、変わらなければならないものの両面で生きている。前者の代表が『農』と『食』だと私は考える。『不易流行』の『不易』の部分である。それは、たぶん、農業が相手としている自然の理に根ざしている。自然界は変わらず、変わってはならない」。

その石川杜氏の講演会で配布されたという丸本智也著『酒屋の群像』を読む機会を得た。この書は、著者が、酒屋の店主5名と酒蔵の杜氏2名、計7名をインタビューしたその記録であり、慶應義塾大学の研究室の卒業制作として執筆されたものが、本としてまとめられたものである。

その中でもやはり、石川杜氏のインタビュー録に惹かれる。

お酒はもともと自然からの授かりもの、神に捧げるものであって、「つくりもの」ではない、ということ。

そのものの価値とは、関係性の中にある、お酒やご飯も一緒で、その味だけで完結するものではない、ということ。

いま世の中のお酒は、表面的な美味しさ(一番わかりやすい「あまさ」)ばかりを追求しているということ。

お酒が美味しくなっていけば、消費も上がっていくはずなのに、それとは逆の現象が起きているということは、おいしさを追求する方向が間違っている証明だ、ということ。

乳酸菌を添加しない生もと;造り(竹鶴酒造の生もと造りは、酵母も無添加)もそうだが、出来上がった江戸時代後期に、すでに日本酒造りは完成されているということ等が興味深く、そして著者の力が加わり、わかりやすく描写されている。

人の生きざまを見聞きすることは面白い。お酒に関心のない方こそ読んでもらいたい、と思ってしまう一冊だ。自主制作本なので一般の本屋さんでは販売されていないようだが、ネットで検索すると購入先が見つかるので是非!

一般の本屋さんに並ぶものは流行もんばかりだからね(笑)!

竹鶴酒造のお酒を超熱燗で!

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6月2日、一滴の会主催「日本酒じゃぶじゃぶ~酒琉来ロードをたどって~」は、無事終了し、お陰さまで大好評でした。

僕は、昨年は杜の蔵の社長・森永一弘さん、そして今年は竹鶴酒造の杜氏・石川達也さん(写真右)とペアーを組むことができた。その両者に共通するところは、燗酒を愛すること、そして、その美味しさを伝えることへの熱意が秀でていることだ。その情熱をそばで感じることできたのは、贅沢な幸せで、お陰さまで身も心も温まることができた。

石川さんは、前日も百年の杜にご来店していただき、会終了後の懇親会でもお話を聞くことが出来た。百年の杜でも燗酒の美味しさをお客様に伝えていきたい、という思いがあるので、今回の交流から石川さんのお話を一部ご紹介!

このお酒は何度ぐらいがベストですか、というお客様からの質問に石川さんが答えられたのは、石川さん自身、お酒を飲む時は、超熱燗(飛切燗)に付けるという。そうすることで、当たり前だが温度は徐々に下がり、色々な温度の日本酒の味を感じることが出来るからだという。

そして吟醸香のお話し。石川さんは、吟醸香ばかりを追求する日本酒業界に疑問を感じている。特に、カプロン酸エチルという特定の香りを高くするための酵母開発が進んでいるが、そうした香りが強いお酒は、飲み飽きる、料理の味を邪魔する、燗にすると鼻につくと、とその欠点を話してくれた。

以下、石川達也著、小冊子『間違いだらけの酒常識』竹鶴酒造より。

『私は、日本酒の持ち味を、その度量の広さだと考えています。つまり、
☆いろんな温度で飲んで楽しめる
☆幅広く料理と合わせて楽しめる
☆熟成による変化もまた楽しめる
といった、どのようにしても楽しめる懐の深さが、日本酒の真骨頂だと思うのです。この三要素を満たし、かつ飲み飽きずに飲み続けられる酒なら、それは秀でた酒だと言えるでしょう』(小冊子『間違いだらけの酒常識』竹鶴酒造より)

懇親会で、「いや、石川さんは、本当に自分を持っている方ですよね」と話したら、いや、違いますよ、とあっさり否定され、石川さんが尊敬しているという故伊丹十三さんの言葉について語られた。「私自身はほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない・・・」

いや~、石川杜氏はやっぱり器の大きい人だった。

「日本酒じゃぶじゃぶ~酒琉来ロードをたどって~」2013の出品料理

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6月2日開催の一滴の会主催「日本酒じゃぶじゃぶ~酒琉来ロードをたどって~」。参加する各店舗は、出品する料理やお店の紹介を記した当日配布用の資料の原稿を書いているところだ。今日が締め切り日だが、まだあまり集まっていないようだ…。5月21日には最終の打ち合わせが予定されている。

さて、その百年の杜の出品料理。当店はカウンターとテーブル2席の小さな居酒屋で、冷蔵庫の大きさにも限りがある。一部、二部の計250人分の料理を前もってストックしておける場所がない。そこで昨年考えた。当店人気の宮城屋のお豆腐を当日、会場に直接送ってもらい、そのつけダレを作ろうと。

今年は、『ビーツドレッシング』、『釜揚げシラスと酒粕のつけダレ』、『新玉ねぎのピリ辛練味噌』と3種類のつけダレを用意する予定だ。

宮城屋のお豆腐は、原料の大豆は北海道と秋田の契約農家で栽培されたものを使用、通常の豆腐用の大豆より、味はあるが作りづらい品種を手間と時間をかけてじっくりと仕上げた本物のお豆腐だ。

新玉ネギとビーツは、環境保全型農業に取り組む横須賀市長沢「ながしま農園」から仕入れ、釜揚げシラスは横須賀市長井「かねしち丸」から、酒粕はもちろん「竹鶴酒造」からのお届けものだ。

『ビーツドレッシング』。ボルシチの具材として知られるビーツ(サトウダイコン類)が、ながしま農園で作られているので、今年から百年の杜でも使用するようになった。長島さん曰く、ニンニクとの相性がよく、お互いの癖を消し合い美味しさを引き出すということなので、ドレッシングにはニンニクも加えてみることにする。

『釜揚げシラスと酒粕のつけダレ』。酒粕を昆布と鰹節の出汁で、熱を加えながら伸ばし、醤油で味を整える。そこに釜揚げシラスを和えて、冷奴にかける。それぞれの味が消されてしまうかな、と思ったが、試してみたら意外にマッチして、独特の味になった。

そして『新玉ねぎのピリ辛練味噌』。昨年、この練味噌を杜の蔵の『独楽蔵 玄』に合わせて好評だったので、今年も作ることにしたが、昨年よりもピリ辛に仕上げる予定だ。

この3種の変わり冷奴をペアーを組んでいただく竹鶴酒造3種のお酒にあわせることになる。竹鶴酒造のお酒は、『竹鶴 雄町』、『石川達也』、『竹鶴 生酛』。どれも冷や(常温)で用意し、燗酒を中心に提供することになっているので、本来ならばこちらの酒肴も温めた方がいいのだが、「こうしたイベントは、お客様との交流が大事なので、そこまでしなくて大丈夫ですよ」という石川杜氏のアドバイスを受け、温めないでご提供することにした。

通常このような大きなイベントは、やっつけ仕事のようにあっけなく終わってしまうことが多いのですが、この会は、ゆっくりと各蔵元や各飲食店と交流することが出来ますので、昨年も大好評でした! まだ定員に達していないようなので、迷っている方は是非ご参加下さい!! 

皆様との交流を楽しみにしております。

(写真撮影 掛田薫)

お子様にも好かれる百年の杜を目指して!

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ご存知の通り、当店は3時からオープンしている。安心・安全な食べ物や飲み物にこだわっているということもあり、早い時間には子連れのお客様も来ていただけることがある。

工藤さん一家(写真)は、オープン当初からのご常連だ。娘さんの小春ちゃんは、最初はシャイだったが、いまはなんでも話してくれるようになった。昨日ご来店された時のお話しは面白かった。学校で久里浜の街についてテーマを絞って勉強する機会があったらしく、小春ちゃんは、なんと百年の杜を題材にしてくれたのだ。「他の友だちは公園とかばかりだったけど、百年の杜は私だけだったよ!」と。まあ、そりゃそうだよな、小学生の子どもが居酒屋を勉強の題材として取り上げたりしないよな・・・。でも本当に嬉しいことだ。

海・山・里からの恵を次の世代にも残して行くことが出来たら、なんていう思いを持っていながら、お酒をご提供する居酒屋なので、子どもとの接点がほとんどない。こうしてお子さんを連れてきてくれると本当に心が温まる。

しかし、その次世代に残す食を取り巻く環境は深刻な状況である。いま新聞やテレビ、お店のお客様同士の話題でも、「日本の農業は弱くない、輸入物が入ってきても私はちゃんとした日本産を選びますよ」なんてお話もあるが、選ぼうとしても選べない状況が作られていくことは目に見えている。例えば、当店のリンゴジュースやラ・フランスジュースは、山形県長井市から取り寄せている。でもそれは、自動販売機やコンビニでは買えない。企業の論理から言えば、そんな利益率の悪い物ではなく、外国からの安価な商品を出来るだけ安く販売することが出来れば、商品もたくさん売れ、利益も増え、企業は存続することができる、となるわけだ。

91年にオレンジ、92年にオレンジジュースの輸入が自由化されたときもそうだった。みかん農家は大打撃を受け、みかんの消費量も減少の一途をたどった。オレンジジュースを日常的に飲んでいる人はいるかもしれないが、みかんジュースを毎日のように飲んでいる人は、生活クラブの会員など、よっぽど意識の高い人だけだ。

百年の杜はそんな世の中に対するささやかな抵抗かもしれないが、今後も、儲かることばかりを考えた商品を売るのではなく、安心・安全な食べ物や飲み物をお客様に提供していきたい。あら、またちょっと真面目な話題になってしまった…。まあ、とにかくお子様にも好かれる百年の杜を目指して、今日も張り切っていこう!

釜揚げヒジキは春の香り

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釜揚げヒジキの季節ですね!この時期三浦半島の各漁港では、ヒジキ漁が解禁され、海辺では、ドラム缶を釜にして茹でる光景が見られる。

若竹煮なんて料理もあり、春の季語ともなっているワカメだが、実際このあたりのワカメ漁は3月のまだ寒い時期に行われるので、僕にとってワカメは冬の終わりのイメージがある。そして、この時期にやってくるのがヒジキ。新年度に入ったばかりのいま、釜揚げヒジキこそ春の香りを感じる海からの恵だ。

昨日、佐島の魚工房『ヤマネ』にそのヒジキを仕入れに行き、店長の福本大さん(写真)にヒジキ漁のお話を伺った。ヒジキ漁はかなりの体力を使うため、大さんは筋肉痛でぎこちない動きをし、しゃがむのも一苦労のようだった。そんな姿を見て笑ってはいけない(笑ってしまってすいません・・・)。このヒジキの刈り取りと加工は、大変な重労働なのだ。しかし、その分、ひじきは比較的高値で取引されるので、漁師さんたちにとっては大切な生活の糧となる。

ヒジキは12月頃に幼芽が伸び始め、地域によっては、その幼芽が美味しい、と収穫されるところもあるようだ。冬にゆっくりと成長したヒジキは、温かくなった春に急成長をして、解禁日を迎える。

佐島(大楠漁協)では、先日の4月8日(土)が第一回目の解禁日だった。以前までは、解禁したら数日かけてヒジキ漁が行われていたが、昨年から解禁日を1日もうけて、その2週間後に再び解禁日を一日もうけるように改善された。つまりヒジキを刈り取ることができるのは、その2日のみ。

解禁日に刈り取られたヒジキは早速釜茹でされる。ヤマネさんのところでは3時間弱の釜茹で。昨年まではもう少し時間をかけて茹でていたが、一つの釜に入れる量を減らし、火を強める等の工夫で短縮化したそうだ。火を落とした後は、蓋をかぶせ、その上に石を載せて、圧力をかけた状態で次の日の朝まで6時間以上放置される。

ちなみに、大さんのお父さんの福本威(たけし)さんが立ち上げた魚工房『ヤマネ』はこのあたりで「漁師さんのお店」というキャッチフレーズを使ったさきがけでもあるが、10数年に、茹でたばかりのヒジキを『釜揚げヒジキ』と命名したのも威さん。それ以前に認知されていた『釜揚げシラス』をヒントにそう名付けたそうだ。加工場には大きな冷凍庫もあるため、干すのではなく、釜揚げした状態で冷凍保存することも考えた。

当店ではその仕入れたヒジキを「釜揚げヒジキ煮」と「釜揚げヒジキのサラダ」でご提供している。サラダのヒジキには松田のマヨネーズをからめ、野菜を敷いた上にそのヒジキを載せ、その上から当店特製の醤油ベースのドレッシングをかける。

ヒジキはフコイダン科の海藻でカルシウム、鉄分、食物繊維が豊富だ。長生きのもとと言われている旬のヒジキを是非お試しあれ!

蛇のような百年の杜?

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百年の杜の店内は、小さいけれど細長い。この建物のオーナーさんがここでお店を切り盛りしていた時は、そんな細長い建物がゆえに屋号は『蛇の目や』だった。

大きな店であれば、お客様とほとんど会話もできないが、小ぢんまりとした居酒屋であるがゆえに、色々なお客様と交流できることは楽しい。それでもお店の造りが細長いため、テーブル席に座ったお客様との距離は近いようで遠い。せっかく遠方から来ていただいたお客様ともほとんど会話もせず終わってしまうこともある。

それに比べ、一枚板のカウンターに座ったお客様とは、よっぽど忙しい時以外は会話が弾み、これまでもたくさんのお客様と交流することが出来た。バイト君たちにも、お客様に向かってたくさんのお話をするのではなく、お客様のいいところを引き出して聞くように工夫してみて、なんてアドバイスをしておきながら、時には店主である僕の方が出しゃばってしまうこともあることは、反省材料の一つだ。

同じ場所にいながら、それぞれ違う角度や視点でお話をしているんだなあ、と思うとなんとなく不思議な気持ちになる。ヨットに乗るご常連がこんなことを言っていた。

「海から港に入るということは、その町に裏口から入ると同じことなんだ。普通では感じることの出来ないその町の雰囲気が見えてくる。裏口からの受け入れがいい町はたいてい魅力のある町だよ」

考えた。居酒屋経営は、日々の経営に追われて、ついつい毎日が短調になってしまうが、常にお客様に後ろから見られている緊張感を持たなければ、と。見方によっては百年の杜の店内は、船内にいるイメージも創れる。短調ではなく、今日は、百年の杜号はどこへ連れてってくれるのか、そんなワクワク感をお客様に持ってもらえるよう、さあ、頑張ろう!

松輪・杉野農園の割り干し大根

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百年の杜の人気の定番メニューに『ハリハリ漬け』がある。食べるときにパリパリという音がするからそう名付けられたそうだ。

三浦海岸でたくわん用に天日干しされた大根は冬の風物詩になっているが、大根の「切り干し」や「割り干し」も三浦半島の特産だ。大根をスライサーで細かく千切りにしてから干す「切り干し」と、大根を縦に6~8等分に割って干す「割り干し」がある。「割り干し」は、端を残して、その部分を紐等に吊り下げて丸ごと乾燥させるので、強い寒風が吹く三浦半島ならではの食材ともいえる。「切り干し」の方が、保存が効くが、丸ごと干す「割り干し」の方が栄養価も高く、うまみも逃げない。食物繊維やビタミン等も多く含まれているが、天日干しすることでカルシウム等の栄養価がさらに増す。

当店のハリハリ漬けは、三浦の松輪にある杉野農園の割り干しを使用している。

作り方はいたって簡単。割り干し大根を調理用バサミで細かく刻み、それを柔らかくなるまで水で戻す。鍋に移し、醤油1:みりん1:酢1で割った三杯酢をひたひたに注ぎ、弱めの火で沸かし、沸騰手前で火を止めて、冷めてから冷蔵庫に入れて保存する。もうその日から食べることが出来る。当店では、自然派みりん風調味料「味の母」、国産大豆を使用したヤマキ醸造(大手のヤマキ株式会社ではない)の醤油、国産米を使用した生協の純米酢を使用している。

席に着き、ドリンクを注文すると同時に、このハリハリ漬けを注文してくれるご常連が数人いる。それほどやみつきになる美味しさなのだ。

まだ食べたことのないお客様も是非お試しあれ!

お待たせしました『甦る』!

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よみがえった日本酒『甦る』が百年の杜でも復活!
(その経緯に関しては「よみがえる『甦る』をお楽しみに!」http://100nomori.at.webry.info/201301/article_2.htmlに記載)

東洋酒造の『甦る』は、その甘さが人気で、百年の杜の看板メニューの一つでもあったが、鈴木酒造店が醸した『甦る』からは、心地よい酸味と香りが感じられ、まるで違ったお酒に進化した。実にうまい。ちなみに、東洋酒造の時は、精米歩合60%、日本酒度-7、酸度1.4。鈴木酒造店が醸した『甦る』は、精米歩合55%、日本酒度+2、酸度1.7。

大好きな山形県長井市にまつわる出来事なので、この『甦る』の復活はもちろん嬉しいことだが、やはり気持ちは複雑だ。もともと地酒フアンに一目置かれていた鈴木酒造店が、いまこうした形でテレビや新聞等のマスコミにも注目されているが、本来ならば、静かに、良い酒を醸すことだけに力を注いでいたいに違いない。

以前の記事にも綴った、広島の天満町で『海農食酒のら屋』を営み、平和活動に取り組む原信幸さんを思い出した。原さんは1950年に長崎で生まれた。父親はその長崎で被爆し、奥さんと子どもは亡くなった。その後、父親は再婚し、その新しい奥さんとの子として生まれたのが原さんなのだ。長崎に原爆が落とされなければ原さんはこの世に生を受けることが出来なかったのだ。

原爆と原発、人と酒の違いはあるが、この『甦る』もあの原発事故がなければ、生まれてこなかったお酒。

愚かな者が、また愚かな事を繰り返し、賢い者が、いつも小さな希望を創りはじめるが、また打ち消されてしまう。本当はそんな時代の繰り返しではなく、人々が創った小さな希望が為大へと結ばれていく世の中にならなければならないのに…。

『甦る』という希望を百年の杜でも大切に扱って行きたい。自分ばかりが飲み過ぎないように注意しないと!

(すいません、この『甦る』は超限定だったようで、今年の分は、いま店に残っている分で終了です。13.03.23 )

『かわさき こめ農家』の優しさと温もり

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百年の杜のお米は、山形県の小国町『かわさき こめ農家』から届く。

小国町は、3市5町からなる置賜地方の最西部、新潟県との県境に位置する。朝日連峰、飯豊連峰に包み込まれた山里で、豪雪地帯として知られているが、その雪解け水によって美味しいお米が育まれている。小国町はまた、基督教独立学園などがあることでも知られ、自然を愛する方たちが多く住む。『かわさき こめ農家』代表の川崎吉巳さんも米づくりだけでなく、山菜や雑穀の普及活動やブナ林の保全活動、3.11の支援活動にも積極的に携わっている。奥様の恵さんは獣医で、とても活発で才気のある方だ。

その川崎吉巳さんとの出会いは1995年11月。当時、タイで新聞やテレビを賑わしていた農民活動家バムルン・カヨターさんを連れて、山形県南陽市の宮内温泉で開かれる置賜百姓交流会の交流会に参加した。

置賜百姓交流会は、減反反対運動をきっかけに1978年に発足した団体で、メンバーはそれぞれの地域のリーダー的存在で、議員や町長になっている方もいる。その農民運動はやがて、海外との農民交流にも広がり、アジア農民交流センター(AFEC)設立に結びついた。何度かご紹介しているが、その運動の立役者の菅野芳秀さんは当店の美味しい玉子の生産者だ。

僕は、タイ農村に1年間滞在して戻って来たばかりだったので、タイ呆けと、大物たちが集まる場で通訳をしなければならない緊張感、そして、置賜百姓交流会・大野和興著『百姓は越境する』(社会評論社)を前もって読んでいったため、その面々にお会いすることが出来るのだ、というワクワク感を持ってその交流に参加したのであった。

夜の宴会も落ち着き、通訳という大役から解放されたときに、川崎さんがスーッと寄り添って来てくれて、あらためて乾杯をしたときに、川崎さんが「あなたとは長い付き合いになりそうだな」とぼそっとつぶやいてくれた。緊張感がほぐれ、これからもこの面白い交流に携わることが出来るのだ、と喜びを感じた瞬間だった。

その後もタイや日本の仲間たちと置賜に足を運ぶたびに、川崎さんにはお世話になった。百年の杜のオープンが近づくと、「金銭的な支援は出来ないけど、お米だったら1年間分は送るよ」と言ってくれたので、オープン前には、家族で小国町まで挨拶を兼ねて遊びに行くと、2007年12月12日のオープン当日にはお店までやってきてくれて、その初日を盛り上げてくれた。

いまはお店の営業に追われ、なかなか小国町まで足を運ぶことは出来ないけれど、出会いから18年経ったいまでもこうして川崎さんとつながることが出来て嬉しい。

百年の杜では、その『かわさき こめ農家』のお米を土鍋で炊き、炊飯器で保温してお客様にご提供している。そのお米の味には、川崎さんの優しさと温もりが加わっていますよ!